ふたりのフツウ


 時刻は21時。外はすっかり夜の帳が下り、静まり返った住宅街に、時折車のエンジン音が通り過ぎるだけだった。

 ベールホワイトのフローリングの真ん中を彩るグレーのカーペット、いまだに小学生の頃の校外学習の集合写真が飾られている勉強机、シングルベッド、一巻から揃えてそろそろ100巻近くになる漫画で埋め尽くされた本棚

 ——かれこれ10年以上の付き合いになる自室だ。何一つ変わっていないのに、自分だけが変わっていく気がする。そんなことをぼんやりと思いながら、湊はベッドに仰向けになり、スマホの画面を見上げていた。

「んー、振り付けか……」

 動画サイトや体育祭の取材記事を片っ端から流し見して、すでに一時間。スクロールする指が止まっては唸り、止まっては唸りを繰り返している。

「5分ってのがなぁ。入退場で2分として、残り3分間のパフォーマンス……いや、入退場のときにも行進曲みたいので盛り上げるとしたら、それ用の音楽とパフォーマンスも別で考えなきゃ」

 独り言が天井に吸い込まれていく。

 幸い赤団は体育祭の花形だ。色だけで観客の関心はある程度引ける。だからこそ、その看板に恥じないパフォーマンスが必要になる。

 和太鼓や小太鼓を使ったものがやはりメジャーだ。検索すれば似たようなものがいくつも出てくる。ベタと言えばベタだが、まとまりは出る。だがぶっちゃけ、誰でも思いつく。何か、もう一歩インパクトのある何かが欲しかった。

 なぜ、半ば嫌々引き受けた応援団長にここまでやる気を燃やしているかというと——それは5時間前の出来事に遡る。

*****

 応援団ミーティングを終えた湊は、市場調査という名の意義申し立てのために、職員室の扉を開けていた。

「おー久我、どうかしたか。授業の質問なら今話題のチャッピーにした方が早いぞ」

 宇佐美が椅子をくるりと回して振り返る。その黒曜石のような目には、いつも通り生気というものがまるで感じられない。

 椅子にかけられた白衣のポケットからはみ出したプリントが、半端な角度で揺れていた。

「違いますけど、アレたまに堂々と嘘をつくじゃないですか。教師が勧めないでください」

「おいおい、久我。その若さでそんな堅物なことを言ってると……」

「まったく、もって久我の言う通りです!!」

 宇佐美の正面のデスクから高梨の声が飛んでくる。きっちりと糊の利いたスーツ、隙のないセットの髪——同じ空間にいるのに、この二人の対比はいつ見ても目に痛い。

「……コイツみたいになるぞ」

 宇佐美はチラリとも見ずに親指を立て、グイッと高梨を指し示した。

「指を刺すなぁ!」

「まったく。先日も課題をAIにさせてそのまま書き写している生徒がいて、学校側から注意文を出したばかりじゃないですか」

 高梨が続けると、宇佐美はいかにも心外だという顔をした。その目が細くなるのを、湊は半歩引いたところから眺めていた。

「私は生徒たちのネットリテラシーを鍛えているのですよ。というか、碌に確認せず書き写すソイツがよくない。私みたいに程よく自分の手を入れて、正確性の高そうなものを繋ぎ合わせればいいんですよ」

「私みたいに……?」

 一拍の沈黙。

「ヤッベ」

「貴女という人は!教師がそんなでは生徒にも悪影響ですよ!」

「アレレ?ですがぁ、アタクシの教育で科学の平均点、お宅の古典より高かったですよぉ?」

 手をわざとらしく口に当て、煽る煽る。彼のシルバーの瞳が僅かに険しくなるのを見て、宇佐美はどこか楽しそうですらあった。

「貴女あれ、八百長プリントを配ったでしょ。無効ですよ無効!」

「チッ!どこから情報が漏れた……森か?渡部か?それとも……久我、貴様か」

 宇佐美の黒曜石のような目がゆっくりと湊を向く。

「違いますよ、駄教師。……それより去年とかの体育祭の映像みたいなのないですか。応援団の参考にしたいんですけど」

 湊が話を切り替えると、宇佐美は少し考えてから首を振った。

「そういうのは規則で見せられないことになってる。ネットに上げられたら問題になるしな。その代わり、資料室に卒業生のアルバムはあるが」

「分かりました、それを見せてもらいます。……資料室ってどこですか?」

「ああ、それなら——綿貫、お前も行くんだろ。案内してあげなさい」

 え、と湊が声のした方を向くより早く。

「あ、あはは〜、湊やっほ〜」

「先輩?!」

 高梨の机の下から、和哉が生えてきた。

「何故か急に慌てて私の机の下に潜り込もうとしてたのをうっかり失念しておりました。綿貫に鍵を渡してあるから案内してもらいなさい」

 高梨が事も無げに言う。その表情には和哉を糾弾する気も理由を問う気もなく、ただ淡々としていた。和哉は苦笑いのまま立ち上がり、ズボンの膝をはたいた。

「はい、助かりました。ありがとうございます、高梨先生」

「久我、久我、担任である私には?」

 宇佐美がなにやら期待の目を向ける。湊は一瞬間を置いてから、

「宇佐美先生、今度からは無断で生徒の個人情報を漏洩したら駄目ですよ」

「は?どういうことです、宇佐美先生」

 高梨の声が低くなった。スーツの背筋がさらに伸びる気がした。

「ちょっと、久我!なんで今言うんだ!」

「綿貫先輩、行きましょう」

「う、うん」

 職員室の扉を閉める瞬間、背後で宇佐美が「うわぁ」と呻く声と、高梨が何かを申し述べ始める声が重なった。湊は聞こえないふりをした。

 廊下に出ると、学校特有の静けさが耳に戻ってくる。放課後の廊下は、空気の密度がどこか違う。湊はようやく一息ついた。

「そういえば、どうしてあんなところに隠れてたんですか?」

「ん〜……か、かくれんぼかな」

「なるほど」

 和哉は思いがけず「信じちゃった」という顔をしているが、後ろを歩く湊は知らない。

*****

「ここだよ」

 和哉が開けた扉の奥は、こぢんまりとした資料室だった。窓のない部屋に蛍光灯の白い光が満ちており、壁際の棚にずらりとファイルやアルバムが並んでいる。年代順に並んだ背表紙は、この学校の歴史をそのまま積み重ねたようだった。

「おー、初めて来た。先輩が居なかったら迷ってたかもしれないです」

「湊、行ったことない場所だと急に方向音痴になるもんね」

「いえ、方向音痴ではないです」

「へぇー」

 和哉は笑いながら、棚の一列を指さした。

「あ、卒業アルバムはここだよ」

「ありがとうございます」

 湊はアルバムを引き抜き、パラパラとページをめくる。写真の中の応援団員たちが、今よりずっと遠い時間から笑い返してくる。

 「写真、か…」

 ポーズ、隊形、衣装、目で追いながら、湊は口を開いた。

「……なんか、先輩と話したの久々な気がします」

「え、ああ。テスト期間は部活がなかったし、すぐに体育祭期間に入ったから部活もないもんね」

「はい。前回久々に会ったのに先輩居なかったし……」

「あはは、ごめんね。進路面談でね……今日もここに大学の資料を見に来てるんだ」

 和哉の声が、少しだけ硬くなった気がした。

「大学、ですか」

「うん。もう高3の初夏なのに、まだ全然絞れてなくて」

 湊はアルバムを閉じて、和哉の横顔を見た。窓のない室内でも、眼鏡のレンズが蛍光灯の光を受けて白く光る。その横顔には、いつものふんわりとした柔らかさとは少し違う、考え込んでいるような色があった。

「どんなところがあるんですか?」

 自分でもなぜそう聞いたのか、うまく説明できない。ただ、もう少し話していたかった、それだけだった。

「うーんとね」

 和哉は手元の資料に目を落としながら、ゆっくりと話し始めた。

「ここは法律系に強いらしいし、公務員になる人が多くてキャンパスも綺麗なんだって。ここは理系の人が多くて就職率も高いらしい、ビジネスにも強いって……」

 言葉が続いていく。でもどこか、声の芯の部分が少しだけ乾いている気がした。

*****

「和哉、大学は就職率の高い、公務員になれる国公立になさい。家から通えるところにいい所があるから」

 母の声は、いつも結論から始まる。選択肢を提示しているようで、実際にはすでに『出すべき』答えが決まっている。

「親戚の斉藤さんの娘さんが通ってる法学部や経営学部のある大学のパンフレットをいただいたから、目を通しておきなさい」

 手渡されたパンフレットの表紙を眺めながら、和哉は心の中だけで呟いた。

 ——今の成績で、そんなところに行けるわけないだろ?

 でも、それは声に出さなかった。出せなかった。

*****

「どこも家から通える範囲で探してはいるんだけど、なんかなぁ……」

 和哉のサファイアの瞳が少し濁る。水に墨汁を垂らしたように、じんわりと。一瞬だけそこに覗いたものを、和哉はすぐに笑みで覆い隠した。

「……湊は、もう将来とか考えてる?」

 和哉は気を紛らすように湊に声をかける。

「俺ですか。う——ん、あんまりまだ具体的には」

「そっか。まだ1年生だもんね」

 和哉がくすっと笑う。

「でも、なんかやりたいこと、あったりする?」

 湊は少し間を置いてから、

「……願望はあります。叶うかは分かりませんが」

 それ以上は言わなかった。和哉は不思議そうに首を傾げたが、追いかけてはこなかった。

 窓のない静かな部屋に、二人分の息遣いと、紙をめくる音だけが続く。

 ——今のうちに言っておこう、と湊は思った。ここを逃したら、次はいつ話せるか分からない。部活の休みが明ければ、また茶道室の中だけの距離になる。それはそれで好きだが、今は、今みたいに、ちょっと廊下で、ちょっと資料室で、二人だけの会話がしたかった。こんな偶然は、そうそう転がっていない。

「あの、先輩」

「うん?」

「俺、応援団長になりました」

 和哉がぱちりと瞬きをした。

「え、そうなの? 湊が?」

「はい。まあ、半ば強引に押し込まれたんですけど」

「すごいじゃん!」

 和哉の声が一段明るくなる。さっきまで少し曇っていた青い瞳が、ぱっと晴れたように見えた。その変化が嬉しくて、湊は少しだけ照れた。

「でもなんで今そこまで頑張ってるの。さっき市場調査とか言ってたけど」

「……まあ、やるなら本気でやりたくて」

 本当のことだった。ただそれだけじゃない、とも分かっていたが、その先は言わない。

「あ、ちなみに先輩」

「ん?」

 湊は資料室の棚を向いたまま、さりげない声で付け加えた。

「赤団って、一組じゃないですか」

「そうだね」

「一緒の団なんですよね」

「……うん」

「体育祭のとき、俺の応援、ちゃんと聞こえるところに居てくださいね」


「え?」

「先輩に聞こえてないと、ちゃんと声が出ないかもしれないので」

 言ってから、湊は素知らぬ顔でアルバムのページを開いた。言いたいことは言った。恋愛感情を悟られないよう、あくまでそれ以上でも、それ以下でもないそういう体裁を、かろうじて保った。心臓が少しうるさかったが、顔には出さなかった。たぶん。

 和哉はしばらく黙っていた。やがて、

「……そっか、じゃあサボれないなぁ」

 と小さく言った。声に笑みが混じっているような気がした。でも何故か、湊は確かめるために顔を上げることができなかった。

 まだその顔を見てはいけない気がして。

*****

 そのやり取りを5時間引きずったまま、湊はスマホを胸の上に置いた。

 天井の白いクロスが視界に広がる。

 ——先輩に聞こえてないと、ちゃんと声が出ないかもしれないので——

 言えた、と思う。変な汗はかいたが、言えた。

 問題は振り付けだ。こんなことをぐるぐると考えていても、パフォーマンスの構成は一ミリも進まない。それは分かっている。分かっているのに、またさっきの資料室のことを思い出してしまう。

 ——そっか、じゃあサボれないなぁ——

 声に笑みが混じっていた。あれは笑っていた。確かに。

「……まあ、かっこいいとこ見てもらえれば、それでいいんだけど」

 小さく呟いて、湊は再びスマホの画面を立ち上げた。

 やることは山積みだった。だが不思議と、気は重くなかった。