ふたりのフツウ


 高校初の中間テストを終え、学校は一気に体育祭一色になっている。廊下に張り出される掲示物、教室に飛び交う声、どこかそわそわとした空気

——湊のクラス1-1もそれは同様だった。
実技も筆記も関係ない、純粋な熱気。
それがじわじわと校舎全体に満ちていた。

 しかし、ある問題が上がっていた。

「頼む!久我!応援団長をやってくれ!」

「いやぁー、無理っスね」

「そこをなんとか!」

 かれこれこの問答を5ラリーほどしている。昼休みの教室、窓から差し込む春の日差しが黒板に光を落とす中で、湊は『体育祭委員』の渡部春人わたべ はるひとと磯貝拓人いそがい たくとと向かい合ったまま動かなかった。

 二人の目には「絶対に諦めない」という光が灯っており、湊はその圧に微妙な疲労感を覚えていた。そう、応援団長の枠が埋まらないのだ。

 以前、競技表の最下部に、まるで詐欺師が契約書に仕込むような小さな文字で発見した一文がある。

『○応援団長1名、副団長1名を選出しパフォーマンス内容、人員、図を作成し提出すること。○クラスパネルの作成、リーダー1名、副リーダー1名を選出、下書きデザインを作成し期日までに提出すること』

 この学校では、1クラスごとに応援団を編成し、自団の応援パフォーマンスを披露してその得点を競う形式らしい。体育祭委員の磯貝と渡部がクラスLINEで呼びかけていたようだが、この様子を見るに、立候補は集まらなかったのだろう。

 誰も自分から火中の栗を拾いたくはない——それが正直なところだ。見渡せば、教室に残っていた数人の生徒たちがそれとなく視線を逸らしている。やれやれ、とは思うが、湊とて同じ気持ちだった。

 そして何故か湊に白羽の矢が立てられているのだが、その訳は。

「久我のスポーツテストの結果見たけど、その辺の運動部より動けるじゃないか!!」

 そう、なぜか湊のスポーツテストの結果が周知されているのだ。個人情報を閲覧できる権限など、体育教師か担任クラスの教員にしかないはずで——考えるまでもなかった。

 犯人は宇佐美だ。

 運動のできる人間を把握するためなのだろうが、それを当人の許可なしで他の生徒に見せるのは、アウトもアウト、完全にアウトである。いつか一言言ってやろうと、湊は心の隅にしっかりと書き留めた。書き留めた上でさらに二重丸まで付けておいた。

「久我は真面目だし、気のいいやつだし、みんなをまとめる応援団長に向いてると思うぞ! それに宇佐美も『久我なら押せば引き受けてくれる』って言ってたし!」

「……後半、俺に言っていいことか?」

 湊の眉がぴくりと上がる。春人は一瞬口ごもり、わざとらしく咳払いをした。

「ん!んんん!おっほん!とにかく、とにかくだ!メンバーを今日中に委員会に提出しないといけないんだ!とりあえず名前だけでも貸してくれ、ほら——この『応援団長』の欄に『久我湊』って書いてくれ!」

「え、名前書くだけって……」

「名前を書くだけ! 簡単だろ? ほらペン持って、ペン!」

 拓人が差し出すボールペンを、湊はじっと見つめる。白い軸に黒いキャップ。たった一本のペンが、妙に重く見えた。

「うーん、でもなぁ」

「このクラスを率いることができるんだぜ」

「内申も稼げるかもよ」

 春人と拓人が交互に甘言を囁いてくる。まるで悪魔が左右の肩に乗っているようだ、と湊は思った。

「うーむ」

「応援団は各クラスオリジナルの衣装を着るんだ。経費を多めに回すから、いい物着てもらっていいぞ」

 拓人の声が、さらに甘くなった。

「かっこいい衣装なら、いろんなやつからモテるかもなぁ。『普段と違う彼、かっこいい!』ってなるかもよ。クラスだけじゃない——他クラスや先輩たちも目じゃないぞ」

 その言葉が、湊の胸のどこかに小さな火を灯した。

 ——先輩も、目じゃない?

*****

「わぁ! 湊! その服、すごく似合ってる……すごいかっこいいよ」

 浮かんだのは、ふわりとした黒髪と、眼鏡の奥で柔らかく細められた青い瞳だった。ただそれだけの想像なのに、じわりと熱が胸の奥から広がってくる。頬が少しだけ温かくなる感覚がして、湊は内心で自分を叱りつけた。こんな単純なきっかけで揺れるな、と。

*****


 ——揺れるな、と言って、もうとっくに揺れていた。

「ーーっす……やる」

 絞り出すように湊が言うと、春人の顔がぱっと輝いた。

「よっし!」

「ありがとな!」

 二人がかりの攻勢にあっさりと陥落した自分を多少情けなく思いながら、湊はペンを受け取った。用紙の「応援団長」という三文字の横に、静かに自分の名前を書き込む。久我湊。見慣れた文字が、なんだか今日はひどく他人行儀に見えた。

「さて、あとは副団長なんだが……」

 拓人がゆっくりと視線を動かす。その先には、壁際のひとつの席で存在感を限りなくゼロに近づけようとしている人物がいた。窓際の柱に半ば隠れるように腰かけ、文庫本に視線を落として、周囲の騒ぎとは一切関わりのない顔をしている。

「そこで気配を消している笹木響也くん?少しいいかな?」

「お断りします」

 即答だった。二人の視線を受けても、響也は文庫本のページから目を上げようともしない。返事だけは律儀にするのだな、と湊は妙なところに感心した。

「いやぁ、君もスポーツテスト結構よかったよねぇ。タッパもあるし、いい体してるよねぇ、お兄さん」

 春人はグヘヘっといやらしい笑みを浮かべ、響也の肩をじりじりと撫でる。

「渡部、お前、そういう誘い方しかできないの?」

 響也ではなく湊が呆れ声で割り込んだ。春人は少しだけ考えてから、

「なんか、これがしっくり来るんだよ」

「……まあ、似合ってるしな」

「すんごい悪口だな?」

「さっきの久我同様の誘い方になるけど」と拓人が引き取る。

「さっさと折れた方が身のためだぞ、お互い」

 響也がようやく顔を上げた。眼鏡の奥の新緑のような瞳が、一瞬だけ湊を捉える。ほんの刹那の視線で、すぐに外れた。何かを測るような目だった、と湊はなんとなく思った。

「……はぁ、名前を書くだけならいいけど」

「よし、じゃあ書いてくれ!」

「ほら」

「ありがとう! 久我と一緒に今日の放課後の応援団ミーティング、振り付けと衣装の構想、頼んだぞ!」

「「じゃあな!」」

 颯爽と去っていく二人の背中を、湊と響也は並んで見送った。その足の早いこと。目的を達したら即撤収、見事な身のこなしだった。教室にはじんわりとした静けさが戻ってくる。

 湊はため息をついて、自分の名前が書かれた用紙をぼんやりと思い出す。

 ——応援団長、か。

 まあ、かっこいい衣装を着られるなら。

 それだけが、今の湊の密かな動機だった。恋心というのは人を案外あっさりと動かすものだと、湊はまだ自覚していなかった。

*****

 放課後。応援団ミーティングへと向かう湊と響也が廊下に出たところで、見知った顔にぶつかった。

「あれ!久我だぁ!」

 声を上げたのは佐野綾香だった。隣には水野雪が並んでいる。

「ん、ああ。佐野に水野も——もしかして、2人共ミーティングか?」

「うん、そうだよ。なんかぁ、やってくれる人がいなくて、衣装の決定権を譲ってくれる条件で、引き受けた!」

「……お前もか」

「え?」

「いや、なんでもない」

 湊は軽く首を振った。衣装の決定権——自分が衣装の話で釣られたことを、改めて実感する。同じ手口だ。あの二人、なかなかやる。

「でも水野は少し意外だな。さては佐野に巻き込まれたな」

「うん、巻き込まれちゃった」

 雪がため息交じりに、しかしどこか諦観の滲む表情で答える。抵抗の跡が感じられないあたり、綾香の押しの強さが窺えた。

「水野だったら、パネルのイラストの方でも活躍でき……」

「だってぇ、雪にはふりふりのチア衣装でぽんぽん持って踊って欲しいんだもん!」

 湊の言葉に被せるようにして綾香が叫ぶ。廊下を歩いていた上級生が振り返るほどの声量だった。

「そんなの着ません」

 雪が毅然と、しかし若干の赤みを頬に滲ませながら答えた。

「団長権限で強制でぇーす」

「俺の権限をそんなことに使うな」

 湊が即座に突っ込む。綾香はへへっと笑って、ぽんぽんの振り付けを一人で再現し始めた。無駄に様になっているのが腹立たしい。

 そのとき、廊下の先——視聴覚室の引き戸の向こうから女性教員の声が響いてきた。

「応援団ミーティングに来た生徒は、教卓のプリントを一部持ってから自分のクラスの卓が立ってる机に座ってねぇ」

「あ、ほら。早く教室入っちゃお。視聴覚室って初めてじゃん」

 綾香が雪の背中を押しながら扉へと向かう。

「もう、押さないで」

「なあ、笹木?」

 湊は隣を歩く響也に声をかけた。

「視聴覚室って何するところなんだ?」

 響也は少し間を置いてから、

「……さぁ?」

 と短く答えた。興味がないのか本当に知らないのか、判別のつかない声色だった。

* * *

 視聴覚室の中は、思ったよりずっと広かった。縦に並んだ長机の手前に、各クラスのプレートが立っている。湊はプリントを一枚取り、1-1の卓へと腰を落ち着けた。

「さぁ!皆んなには応援団長、副団長として、体育祭を盛り上げてもらいます。これから、体育祭までにしないといけないこと、注意事項などを説明するので、クラスメイトにも教えられるようしっかり聞いていてください」

 挨拶役の女性教員が一礼して左へはける。代わりに前に立つのは、がっしりとした体格の体育科教師だった。声が低く、よく通る。

「今年の応援合戦は、1クラス五分。入退場込みだ」

 プリントのページが捲られる。

「評価は五項目。統一感、声量、表現力、オリジナリティ、そして安全性」

 安全性、という言葉が、他の項目より少しだけ強く発音された。室内の空気がひりっと引き締まる。

「高いリフトは禁止だ。怪我が出たら即減点、場合によっては失格」

 教室に静けさが落ちた。誰かが固唾を飲む音がした気がした。

「衣装は各クラスオリジナルで構わない。ただし動きやすいこと。露出は常識の範囲内でな」

 誰かが小さく息を吐いた。

「団長は責任者だ。揉め事も怪我も、お前たちを通して報告してもらう」

 室内の視線が一斉に各クラスの団長席へと向けられた。湊も同様に感じた——背中に十数本の視線が刺さる感覚。責任者、という言葉の重さを、はじめてはっきりと実感した気がした。

*****

「んー、終わった」

 視聴覚室を出ると、初夏に近づきつつある外の光が眩しかった。廊下の窓から見える校庭には、まだ放課後の部活生が走り回っている。

「長かったな」

「やることが案外多いなぁ」

 湊と響也は並んで廊下を歩きながら、さっそく頭の中で整理を始めていた。

「分担しよう。僕が衣装を考えるから、そっちは内容よろしく」

「うぇ、面倒な方を」

 響也は言いながら、すでに何かを計算するような目をしていた。文句を言いつつ、引き受ける気はあるらしい。

「クラスメイトへの注意事項の伝達はこっちでやっとくから、じゃあな」

「ん、また明日」

 響也の足音が遠ざかっていく。湊はその背中を少し見送ってから、ひとつ肩の力を抜いた。

 ——俺も帰るか。

「よ、久我」

 声をかけられ振り返ると、村内尚弥がひらひらと手を振っていた。その横には佐野と水野も並んでいる。

「あ、村内先輩……っと佐野と水野も」

「あはは、さっきぶり」

 雪が笑う。

「いやぁ、説明を聞いてるとき後ろの席からお前らが見えて、驚いたよ。驚きの余り、大声で名前を叫びそうになったよ」

「「勘弁してください」」

 湊と雪が声を揃えて懇願した。尚弥はカラカラと笑う。

「村内先輩も応援団長なんですね!」

「文化部である茶道部の二分の一が体育会系の応援団なのって、なんだか面白いな!」

 ははっ、と尚弥が腹の底から笑い声を上げた。屈託のない笑い方は、廊下の空気をそのまま明るくする。

「俺は去年もやったから、その経験を生かしてもう一度やってくれって言われたんだよ。なんたって、俺は去年の応援団パフォーマンスで優勝したからな」

 胸を張る様子には、照れも謙遜もない。純粋な自信だった。

「へぇ!そうなんですね。どんなパフォーマンスをしたんですか?」

 湊が身を乗り出すように尋ねると、尚弥は人差し指を立てて左右に振った。

「チッチッチ、そんなこと教える訳ないだろう?まあ、去年と同じことはしないがな」

「そうですか……尊敬する先輩のアドバイスが欲しかったんですが……………チッ」

「村内センパイのケチ」

「怖い物知らずの後輩達め」

「もう、2人共先輩に失礼だよ」

 窘める雪の声は穏やかだったが、その目がわずかに細くなる。

「……もうちょっとおだてたら、ポロッと漏らすかもしれないんだから」


「強かな伏兵が隠れてた!」