ふたりのフツウ


 時間が経つのは早かった。

 気づけば、もう17時を回っている。西日が傾き始め、会場の賑わいも少しずつ落ち着きを見せていた。屋台の照明が徐々に目立ち始め、夕暮れ時の雰囲気が漂い始めている。

「そろそろ映画館に戻ろうか」

 和哉が空を見上げながら言った。オレンジ色に染まり始めた空を眺めながら、少し名残惜しそうな表情を浮かべている。

「はい」

 二人は会場を後にして、映画館へ向かった。

 歩きながら、湊はふと自分の右手を見た。和哉と繋いでいた手は、いつの間にか離れていた。会場を出る時に自然と離れてしまったのだろう。でも、手のひらにはまだ和哉の温もりが残っているような気がした。

 ふと、いつのまにか離れていた右手を寂しく思う。

 もう一度繋ぎたい――

 そんな衝動に駆られたが、さすがにそれは図々しいだろう。湊は自分の右手を左手で握りしめて、我慢した。

 映画館に着くと、ロビーには既に多くの人が集まっていた。上映開始まであと10分ほど。

「じゃあ、入ろうか」

 チケットを見せて、シアターに入る。席は真ん中あたりの良い位置だった。スクリーンが見やすく、音響も良さそうな場所だ。

 和哉が隣に座る。その距離の近さに、湊の心臓はまた高鳴り始めた。暗くなった館内で、和哉の存在がより一層近く感じられる。

 上映が始まった。

 時々、湊は和哉の横顔を盗み見る。暗闇の中で、スクリーンの光に照らされた横顔が、とても綺麗だった。眼鏡越しに映る瞳は、物語に集中している。少し口を開けて、真剣に画面を見つめる姿が、とても愛おしい。

 映画は、妹に勧められた作品だった。今、若い世代を中心に話題になっている作品で、公開から二週間経った今でも、連日満席が続いているという人気作だ。

 内容は、とある翼のない天使の話。

 主人公のメアは、天使でありながら翼を持たずに生まれた。天界では異端視され、疎外されて育った彼女は、ある日、自分の翼が失われた理由を知るために、人間界へと降り立つ。

 そこで出会ったのが、悪魔のルナだった。美しく、冷酷で、自身の美しさに絶対的な自信を持つルナは、実は魔界のスパイとして人間界に潜入していた。最初は敵対していた二人だったが、次第に惹かれ合い、メアの翼の謎に一緒に迫っていく――。

 ストーリーは予想以上に複雑で、伏線が巧みに張り巡らされていた。アクションシーンは迫力があり、メアとルナの関係性の変化は繊細に描かれていた。二人の距離が縮まっていく様子に、湊は思わず自分と和哉を重ね合わせてしまう。

 クライマックスのシーンでは、メアの翼が失われた真実が明かされる。

 それは、彼女を守るために、彼女の母親が犠牲を払った結果だった――。

 映画が終わり、エンドロールが流れる。館内には静かな余韻が漂っていた。

 二人はシアターを出た。

「面白かったね」

 和哉が満足そうに言う。

「はい、想像以上でした」 

 湊も心から同意した。妹が勧めてくれて良かった。そして何より、和哉と一緒に見られて良かった。

「湊はどのシーンが好きだった?」

 和哉が興味深そうに尋ねる。

「えっと……」

 湊は少し考えた。印象的なシーンはたくさんあったが、一番心に残ったのは――。

「ラストシーンが良かったです」

「わかる! あの展開は予想外だったよね。僕、あの時のルナの言葉が好きなんだ。『貴女は翼あってもなくても美しいわ』って。最初、自分の美しさを自慢していたルナが言うのがいいよね。メアの内面の美しさに気づいて、変わっていく過程が丁寧に描かれてたから、あのセリフがすごく響いた」

 和哉が目を輝かせる。映画の話をする和哉は、とても生き生きとしていた。

「そうですね。ルナの変化が、すごく自然で……。最初は自分のことしか考えてなかったのに、メアと出会って、大切なものが変わっていく様子が良かったです」

「うんうん!それに、メアも最初は自分に自信がなくて、翼がないことをコンプレックスに思ってたけど、ルナと一緒にいることで、自分の価値を見出していくのが良かった」

 二人は映画の感想を言い合いながら、駅へ向かった。

 話は尽きることなく、あのシーンが良かった、あのセリフが印象的だった、と次々に言葉が溢れてくる。こんな風に和哉と共通の話題で盛り上がれることが、湊には嬉しくて仕方なかった。
 
*****

 駅の改札前で、二人は立ち止まった。

 ここで別れなければならない。そう思うと、湊は急に寂しくなった。もっと一緒にいたい。もっと和哉と話していたい。

「今日は楽しかったよ。ありがとう」

 和哉が柔らかく微笑む。

「こちらこそ。予定通りにいかなくてすみませんでした」

 湊は申し訳なさそうに頭を下げた。今日は失敗ばかりだった。道に迷って、チケットを忘れて、和哉に迷惑をかけてしまった。

「気にしないで。今日は楽しかったよ」

 和哉が微笑む。その笑顔は、心から楽しかったと言っているように見えた。

「そうですか?」

「うん。湊と一緒なら、きっと何してても楽しいから」

 その言葉に、湊の心臓は跳ねた。

 何してても楽しい――和哉がそう言ってくれたことが、湊には何よりも嬉しかった。失敗だらけの一日だったけど、和哉は楽しんでくれていた。それだけで、湊は報われた気がした。

「あ、そうだ」

 和哉がバッグから小さな包みを取り出した。薄い包装紙に包まれた、手のひらサイズの箱だった。

「これ」

 和哉が湊に差し出す。

「え?」

「誕生日プレゼント。今日、5月5日でしょ?」

 湊は驚いた。

 和哉が自分の誕生日を知っていたことに。そして、プレゼントを用意してくれていたことに。

「どうして……」

「前、中学の時に生徒手帳見えちゃって。それで、覚えてたんだ」

 和哉が照れたように笑う。頬が少し赤くなっているのが、街灯の光でわかった。

 湊は包みを開けた。

 中には、さっきフリマで和哉が見ていたブレスレットが入っていた。革紐のシンプルなデザインに、オレンジのビーズが付いている。和哉が手に取っていたのとは違う色だった。

「あの時、買ってたんですか?」

「うん。湊に似合うと思って。僕が見てたのは紺色だったけど、湊にはオレンジの方が似合うかなって思って、別のを選んだんだ」

 和哉がはにかむように笑う。

「ありがとうございます」

 湊は胸が一杯になった。今日は色々あったけど、最高の誕生日だ。こんなに嬉しい誕生日は、生まれて初めてかもしれない。

「気に入ってくれた?」

「はい、すごく……」

 湊は言葉に詰まった。嬉しすぎて、上手く言葉にできない。

「良かった。じゃあ、また部活でね」

「はい。今日は本当にありがとうございました」

 湊は深々と頭を下げた。感謝の気持ちを、どう表現したらいいのかわからない。

 二人は改札で別れた。

 和哉が改札を通って、エスカレーターに向かう。その背中を見送りながら、湊は胸の奥が熱くなるのを感じた。

 帰りの電車の中で、湊はブレスレットを眺めた。

 オレンジのビーズが、電車の照明に反射して綺麗に光っている。シンプルだけど、丁寧に作られた温かみのあるデザインだ。

 (先輩……)

 今日の出来事を思い返す。

 失敗ばかりだった。予約を忘れて、リサーチ不足で和哉に迷惑をかけてばかりだった。でも、和哉は優しかった。楽しそうだった。そして、こんな素敵なプレゼントまで用意してくれていた。

 (まだまだだな、俺)

 自分の未熟さを痛感する。でも、諦めない。もっと成長して、いつか和哉の隣に立てるように。和哉が困った時に、ちゃんと支えられる存在になれるように。

 湊は決意を新たに、ブレスレットを手首につけた。

 革紐が手首に馴染む。少しきつめに締めると、和哉の温もりがまだそこにあるような気がした。

 外の景色が流れていく。電車は自宅の方向へと進んでいく。でも、湊の心は、まだ和哉のそばにあった。

 (また、一緒に出かけたいな)

 次回の部活が、今から待ち遠しい。

 湊は窓に映る自分の顔を見た。そこには、幸せそうに微笑む少年の姿があった。

 ブレスレットを撫でながら、湊は小さく呟いた。

「ありがとう、先輩……」

 その言葉は、誰にも聞こえることなく、電車の音に消えていった。