ふたりのフツウ


 少しして、美術品の鑑賞を終えた湊と雪の二人は美術館の外に出た。
 薄暗い館内から出た二人の目に、春の昼の光が差し込む。一瞬、眩しくて目を細めた。

「んー、意外と時間かかったなぁ」

 湊はスマホを見て呟いた。思ったより長く見ていたようだ。 

「本当だ、もう12時。2時間くらい見てたね」
 
 雪も驚いたように自分のスマホで時刻を確認する。

「腹減ったな…あ」
 湊は思い出したように雪を見た。

「水野、時間あるなら昼飯一緒に行くか?」

 湊は事前に調べておいた店を提案した。
本当は和哉と来る予定だったが、まあ下見だと思えばいい。むしろ、一度誰かと来ておいた方が、当日スムーズに案内できるかもしれない。

「いいの?」

「もちろん。俺も腹減ったし」

 それに、せっかく一緒に美術館を見たのだ。このまま別れるのも、なんだか中途半端な気がした。

美術館から歩いて5分ほどの場所に、その店はあった。

『Café Beauvoir』

 手書き風のフォントで書かれた看板が、蔦の絡まる壁に掛かっている。建物は古い洋館を改装したもので、レンガ造りの外壁には時の流れを感じさせる風合いがあった。レンガの一つ一つに、歴史の重みが刻まれているようだった。

 入口のドアは深緑色に塗られ、真鍮のドアノブが鈍く光っている。ドアノブの形も凝っていて、アンティークな雰囲気を醸し出していた。ドアを開けると、カランカランとベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」

 柔らかな声で店員が迎えてくれる。品のある物腰の、淡いグレーのエプロン姿の中年女性。その笑顔には、この店を大切にしている気持ちが表れていた。

 店内に足を踏み入れた瞬間、湊は思わず息を呑 んだ。写真で見るよりずっと雰囲気がいい。いや、雰囲気がいいというより、格式が高いというべきか。

店内は照明を落としていて、天井からは小さなシャンデリアが下がっていた。中世ヨーロッパ風のBGMまで流れていて、もう完全に高校生の来る場所じゃない。クラシックのピアノ曲が、静かに空間を満たしている。

 ちょっと背伸びしすぎたかもしれない…
湊は内心で少し後悔した。
床は使い込まれた木のフローリングで、歩くたびに優しい音がする。その音さえも、この店の歴史を物語っているようだった。

 窓は大きく、午後の陽光がレースのカーテン越しに降り注いでいた。窓際には観葉植物が置かれ、葉の隙間から光が漏れている。ゴムの木やモンステラなど、手入れの行き届いた植物たちが、心地よい空気を作り出していた。

 店内は広すぎず狭すぎず、適度な距離感でテーブルが配置されていた。テーブルは一つ一つ違うデザインで、アンティークの家具を集めたような統一感がある。椅子も様々だ。木製のもの、アイアンのもの、背もたれに彫刻が施されたものまで。どれも味わい深く、長く使い込まれた風合いがあった。

 壁には絵画や古い写真が飾られている。風景画が多いが、中には抽象画もあった。
 どれも額縁まで凝っていて、まるで小さな美術館のようだ。さっきまで本物の美術館にいたのに、またここでも絵を見ることになるとは思わなかった。

 カウンター奥の棚には、様々な種類のカップやグラスが並んでいる。アンティークのティーカップ、北欧風のマグカップ、色ガラスのグラス。どれも店主のこだわりを感じさせる。一つ一つが違うデザインで、どのカップで出されるのか、それも楽しみの一つなのだろう。

「窓際の席へどうぞ」

 案内された席は、大きな窓のすぐそばだった。外の緑が目に優しい。木々の葉が風に揺れていて、その動きを見ているだけで心が落ち着く。

 湊と雪は向かい合わせに座った。
テーブルの上には小さな花瓶が置かれ、白い花が一輪挿してある。優しい香りがした。

 メニューを開くと、ランチプレートやパスタ、サンドイッチなどが並んでいた。どれも手作りで、地元の食材を使っているらしい。
 
 説明書きを読むと、契約農家から仕入れた野菜を使っているとのこと。ドリンクメニューも充実していて、コーヒーだけでも十種類近くある。ブレンド、ストレート、アイス、ホット。どれを選んでいいか迷うほどだ。

「な、何にしようかな」

 雪が真剣な顔でメニューを眺めている。その表情には、選ぶ楽しさが表れていた。
 他の客は二組ほど。窓際で読書をしている女性と、奥のソファ席でゆったりと話し込んでいる年配の夫婦。皆、この空間を楽しんでいるようだった。急かされることのない、ゆったりとした時間が流れている。

「わたし、季節野菜のキッシュプレートにする」

「じゃあ俺は…ローストビーフサンドで」

 店員を呼んで注文する。飲み物は雪がカフェラテ、湊はアイスコーヒーを頼んだ。店員はにこやかに頷いて、厨房へと下がっていった。

「いいお店だね。どうやって見つけたの?」 

「ネットで。美術館の近くで雰囲気のいい店って検索したら出てきた」

「へえ、久我君ってそういうの調べるんだ」
 少し意外そうな顔をする雪。

「まあな」

 本当は和哉のために調べたのだが、それは言わないでおく。デートプランを立てるために、かなり時間をかけてリサーチしたのだ。

 ほどなくして、飲み物が運ばれてきた。
雪のカフェラテは陶器のカップに入っていて、表面にはラテアートが施されている。葉っぱの模様だ。繊細な線で描かれたその模様は、見ているだけで芸術作品のようだった。

 湊のアイスコーヒーは背の高いグラスで、氷がカラカラと涼しげな音を立てる。
グラスの表面には水滴がついていて、触れるとキンッとした冷たさが伝わってくる。

「わあ、綺麗」

 雪が嬉しそうにカップを両手で包む。その仕草が可愛らしくて、湊は少し微笑んだ。
湊はアイスコーヒーを一口飲んだ。
苦味の中にほのかな酸味があり、苦い。予想以上に本格的な味だ。湊は速やかに右手をシュガーポットに伸ばす。角砂糖を二つ、グラスに落とした。

「美術館、楽しかった?」

「うん! すごく楽しかった。久我君と来られて良かった」

 雪が笑顔で答える。その笑顔は屈託がなくて、本当に楽しかったのだと伝わってきた。

「俺も。正直、最初は絵とかよくわかんないと思ってたけど、実際に見るとまた違うな」

「そうだよね。本物を見ると、印刷じゃわからないものが伝わってくる」

 雪の目が輝いている。美術の話になると、彼女は本当に生き生きとする。その表情には、好きなものを語る時の特有の輝きがあった。

「水野は絵、描かないの?」

 ふと気になって聞いてみた。あれだけ絵が好きなら、自分でも描いているのではないかと思ったのだ。

「…もう描かないよ。趣味程度だし。友達みたいに上手くないし」
 
 雪は目を伏せて答える。その声には、どこか諦めのようなものが混じっていた。

「見てみたいな」

 純粋にそう思った。そんなに美術品が好きで絵も描けるのだから、勿体ない。きっと素敵な絵を描くのだろう。

「え…」

 雪の頬がほんのり赤くなる。メガネの奥の目が、少し揺れていた。

「今度、部活に持ってきてよ」

「そんな、恥ずかしいよ…」

 雪は俯いてしまった。でも、その表情は嫌がっているようには見えなかった。
程なくして料理が運ばれてきた。

 雪のキッシュプレートは彩り豊かだった。黄色いキッシュの隣には、色とりどりのサラダとスープが添えられている。パンも焼きたてらしく、ほのかに湯気が立っていた。レタス、トマト、パプリカ、ブロッコリー。野菜の色が鮮やかで、食欲をそそる。

 湊のローストビーフサンドは、バゲットに挟まれたローストビーフがはみ出しそうなほどボリュームがある。付け合わせのポテトもカリッと揚げられていて、食欲をそそった。ローストビーフはピンク色で、柔らかそうだ。 

「いただきます」

 二人は手を合わせてから、食べ始めた。
サンドイッチに齧りつくと、柔らかいローストビーフの旨味が口の中に広がる。バゲットの香ばしさと、わさびの効いたピリッとしたソースが絶妙だった。噛めば噛むほど、肉の味が染み出してくる。

「おいしい」

 思わず声が漏れた。期待以上の味だ。

「こっちも。キッシュ、ふわふわで美味しいよ」

 雪が幸せそうに微笑む。フォークで一口サイズに切り分けて、大事そうに食べている。
窓の外では風に揺れる木々の葉が、キラキラと光を反射していた。店内は穏やかな時間が流れている。BGMのピアノ曲が、心地よく耳に届く。

 二人はゆっくりと食事を楽しんだ。急ぐ必要はない。こういう店は、ゆっくり時間をかけて味わうべきなのだろう。

「ねえ、久我君」

「ん?」

 湊はサンドイッチを食べながら顔を上げた。

「今日、一緒に回ってくれてありがとう」

「いや、偶然会っただけだし」

「それでも嬉しかった。美術館も、このカフェも、一人では来ないだろうし」

 雪がそう言って微笑む。その笑顔には、心からの感謝が込められていた。
 湊は少し照れくさくなって、アイスコーヒーを飲んだ。冷たい液体が喉を通り過ぎていく。角砂糖のおかげで、ちょうどいい甘さになっていた。

(綿貫先輩とは、どんな話をしよう)
 そんなことを考えながら、湊は窓の外を眺めた。映画の話をしようか。それとも美術の話の方がいいだろうか。先輩は茶道部の部長だから、伝統芸術に興味があるはずだ。きっと絵画も好きに違いない。

 当日が楽しみだ。きっと和哉も気に入ってくれるだろう。この美術館も、このカフェも。二人でゆっくり時間を過ごせたら、それだけで幸せだ。 

「ごちそうさまでした」

 食事を終えて、二人は店を出た。
カランカランとベルが鳴る。振り返ると、店員が笑顔で手を振っていた。「またお越しくださいませ」という声が、背中に届く。

 外に出ると、午後の陽射しが心地よかった。少し暑いくらいだ。

「じゃあ、そろそろ帰ろうか」

「うん」

 帰り道、雪と他愛もない話をしながら駅まで歩いた。部活の話や、学校の話。最近見たテレビの話まで。特別な内容ではないけれど、そういう何気ない会話が心地よかった。
 今日の下見は成功だ。美術館の雰囲気もわかったし、カフェの味も確認できた。道順もバッチリ頭に入った。

 あとは当日、和哉を完璧にエスコートするだけ。湊の胸は期待で高鳴っていた。ゴールデンウィークまで、あと少し。その日が待ち遠しくて仕方がない。

 駅に着き、改札で雪と別れた。
「今日は本当に楽しかったです。ありがとうございました」

「こっちこそ。また部活でな」

「はい!」

 雪は元気よく返事をして、改札を抜けていった。その後ろ姿を見送りながら、湊は思った。
今日は予想外の一日だったけど、悪くなかった。むしろ、いい予行演習になった。

(さあ、あとは本番だ)

 湊は笑みを浮かべながら、自分も改札を抜けた。帰りの電車の中で、湊はスマホを取り出した。和哉とのメッセージを開く。

『先輩、ゴールデンウィーク楽しみにしてます』
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すぐに既読がついた、『僕も楽しみにしてる』
 
 当日、先輩の笑顔が見られるのが楽しみだ。
窓の外を流れる景色を見つめながら、湊は当日のことを想像した。
 
 きっと、最高の一日になる。