今日は二人で百貨店に行くのだと、有紗が嬉しそうにしていたのを思い出す。
あのホテルから千里たちが簡単に脱出できたのは、実のところ京矢のおかげだった。
九朗たちを心配して実家から自動車を借りて迎えに来てくれていたのだが、スーツも白衣も血塗れで二人とも煤に汚れているものだから、京矢はあんぐりと口を開けて驚いてしまっていた。
おまけに千里は頭が真っ白になっているものだから、そのまま病院に連れて行かされそうになったぐらいだ。
有紗からはもちろん心配したと散々泣かれて怒られた。
京矢は九朗にスーツ代を弁償しろとせっついているらしいが、九朗の無事を知って誰よりも安心していたことは周囲に丸わかりであった。
九朗はあんなに汚すって知ってたら自前の着古したやつにすればよかった、とそればかりだが、なんだかんだ言ってこれまで通りの日常にすっかり元通りになった。
「そういえば、お父上とはどうなったの?」
「ああ、それなんだけど……」
神秘学術協会の存在が消えた今、千里たち母娘にはある問題が生じる。
それは、喜久子が朝霧家にいる理由も消えてしまったということだ。
しかし、千里の不安とは反対に、なぜだか都合よくこれも置き換えられていた。
「再婚理由が姉さんには母親が必要だから、ってことに書き換わってるみたいで、何事も無かったわ。別に、私は追い出されても構わなかったけどね」
知人の勧めで再婚したということになっていて、喜久子との仲も良好で、今更どうしてそんなことを聞くのかと首を傾げられたぐらいだ。
晩餐会で尚政に怒鳴られたことは忘れていないが、あれが彼の全てでは無いということを千里だって分かっている。
「そっか。それなら良かったよ。あの人もきっと、吸血鬼の力で目が眩んでしまっただけなんだよ。きっとこれからは仲良くできるさ」
「そうならいいんだけどね。ま、母さんがこのままでいいなら私から言うことは無いわね」
相変わらず苦手ではあるが、母がのんびり暮らせるのなら悪くはないだろう。
この頃は年相応に老け込んでしまったが、以前よりも自然な笑顔が増えた様子で、朝霧家はようやく千里の心も休まるような場所になった。
またストローに口をつけて、のんびりと店内を眺める。
賑やかな声に紛れて、気落ちした様子の男性二人が横を通って行った。
「はぁ……まさか名簿にある団体そのものが消えるなんて、せっかく記事になると思ったのに」
「もうすぐ選挙だ。今更間に合わんだろう、諦めることだな」
そのうちホテル炎上の事件も世間から忘れ去られていって、また新しい事件が騒ぎ立てられるようになるのだろう。
その裏で起きたことなど誰も知らないままに、日々は過ぎていく。
世間なんてそんなものだ。
それぐらい適当でちょうどいいだろうと、千里は思うのだった。
「ねぇ。次の夏には僕の実家に遊びにおいでよ。ちょっと遠いけど、海が近くにあって眺めがいいんだ」
ふと、九朗がそんなことを提案してきた。
「そうなの? ご実家って……」
「いきなり結婚の挨拶に行ったら、みんな驚くだろうからさ。夏頃なら二番目の兄さんと三番目の兄さん、それと三人の姉さんしか居ないと思うから。全員揃うと大変なんだよね」
「……お、多いわね」
「まあね。あっ、家は広いから安心してね。旅館なんだ。一番いい部屋を貸してもらうように頼んでみる」
「ちょ、ちょっと待って、初めて聞いたんだけど」
千里が九朗に待ったをかけた。
当たり前のことのようにぺらぺらと九朗は喋っているが、突然の情報量に千里は追いついていけない。
「あれ、言ってなかったっけ」
「聞いてないわよ! ご兄弟がたくさんいるとは聞いていたけど、旅館だっていうのは初めて聞いたわよ!? まさか、九朗さんって九番目の子どもだから九朗なの!?」
「そうだよ。それ以外ある?」
九朗は当然のように頷いている。
色々と初めて聞いたことばかりだが、思い返せば、結局魔術師とやらについても千里は何も知らないままだ。
「……九朗さんって、そもそもどういう人間なの」
「えっ、何その質問は」
「だって私、九朗さんのこと全然知らないままじゃない」
千里の言わんとすることを理解したのか、九朗は、ああと笑った。
「魔術について気づいたのは子どもの頃だよ。母親と青さんが知り合いで、ちょっと面倒を見てもらってた時期があったんだ。その時の縁で色々教えて貰って、力を使えるようになった。異郷倶楽部とかのオカルト趣味は全部あの夫婦からの影響だよ」
「そうだったの……」
やはり遠野夫妻は只者ではなかったらしい。
何となく察しは着いていたので今更驚きはしない。
事件が終息してからもなぜか遠野夫婦だけ例外的に神秘学術協会のことを覚えていたり、以前からと不思議なところが山ほどあった。
きっと九朗が時間を戻していたことにも気づいていて、遠回しに何度も忠告していたのだろう。
「でも、それ以外は普通の子どもだったよ。末っ子だったから兄さんたちにはいじめられたし、姉さんたちからは着せ替え人形にされてた。勉強は嫌いじゃなかったから、おかげでこの街に出てこれたってだけで、特別なところなんてなんにもない、平凡な子どもだったね」
幼い頃の九朗を頭の中で想像してみる。
年上の兄姉たちに弄ばれる九朗の姿なんて、思い浮かべるのも初めてだ。
九朗の口ぶりからして家族仲は良いようだから、きっと素敵な家なのだろうと、微笑ましい気持ちになる。
「それよりも、千里さんは僕の一番大切なことをよく知ってるじゃないか」
「え?」
何のことだと首を傾げる千里に、九朗はいつもの調子でふふんと笑う。
「僕は君のことが大好きで、これからもこの先もずっと君に夢中だってこと」
「九朗さんったら!」
真剣に考えてしまったところで揶揄われて、千里は顔を赤くして怒る。
それから、いつもは照れてばかりで素直になれない分、今日ぐらいはと思い、小さく呟いた。
「……私も好きよ。これからはもっとあなたのことを教えてね」
「千里さん……!」
九朗はもちろん聞き逃さなかったようで、すっかり感激している。
それから、ありったけの愛の言葉を次々と千里に贈りながら、幸せそうな笑顔を見せてくれた。
神秘の力も異能力ももう何も要らない。ただ、九朗と過ごすこういう平凡な日々が何よりも愛おしい。
千里はそう思いながら、アイスクリームを頬張った。
あのホテルから千里たちが簡単に脱出できたのは、実のところ京矢のおかげだった。
九朗たちを心配して実家から自動車を借りて迎えに来てくれていたのだが、スーツも白衣も血塗れで二人とも煤に汚れているものだから、京矢はあんぐりと口を開けて驚いてしまっていた。
おまけに千里は頭が真っ白になっているものだから、そのまま病院に連れて行かされそうになったぐらいだ。
有紗からはもちろん心配したと散々泣かれて怒られた。
京矢は九朗にスーツ代を弁償しろとせっついているらしいが、九朗の無事を知って誰よりも安心していたことは周囲に丸わかりであった。
九朗はあんなに汚すって知ってたら自前の着古したやつにすればよかった、とそればかりだが、なんだかんだ言ってこれまで通りの日常にすっかり元通りになった。
「そういえば、お父上とはどうなったの?」
「ああ、それなんだけど……」
神秘学術協会の存在が消えた今、千里たち母娘にはある問題が生じる。
それは、喜久子が朝霧家にいる理由も消えてしまったということだ。
しかし、千里の不安とは反対に、なぜだか都合よくこれも置き換えられていた。
「再婚理由が姉さんには母親が必要だから、ってことに書き換わってるみたいで、何事も無かったわ。別に、私は追い出されても構わなかったけどね」
知人の勧めで再婚したということになっていて、喜久子との仲も良好で、今更どうしてそんなことを聞くのかと首を傾げられたぐらいだ。
晩餐会で尚政に怒鳴られたことは忘れていないが、あれが彼の全てでは無いということを千里だって分かっている。
「そっか。それなら良かったよ。あの人もきっと、吸血鬼の力で目が眩んでしまっただけなんだよ。きっとこれからは仲良くできるさ」
「そうならいいんだけどね。ま、母さんがこのままでいいなら私から言うことは無いわね」
相変わらず苦手ではあるが、母がのんびり暮らせるのなら悪くはないだろう。
この頃は年相応に老け込んでしまったが、以前よりも自然な笑顔が増えた様子で、朝霧家はようやく千里の心も休まるような場所になった。
またストローに口をつけて、のんびりと店内を眺める。
賑やかな声に紛れて、気落ちした様子の男性二人が横を通って行った。
「はぁ……まさか名簿にある団体そのものが消えるなんて、せっかく記事になると思ったのに」
「もうすぐ選挙だ。今更間に合わんだろう、諦めることだな」
そのうちホテル炎上の事件も世間から忘れ去られていって、また新しい事件が騒ぎ立てられるようになるのだろう。
その裏で起きたことなど誰も知らないままに、日々は過ぎていく。
世間なんてそんなものだ。
それぐらい適当でちょうどいいだろうと、千里は思うのだった。
「ねぇ。次の夏には僕の実家に遊びにおいでよ。ちょっと遠いけど、海が近くにあって眺めがいいんだ」
ふと、九朗がそんなことを提案してきた。
「そうなの? ご実家って……」
「いきなり結婚の挨拶に行ったら、みんな驚くだろうからさ。夏頃なら二番目の兄さんと三番目の兄さん、それと三人の姉さんしか居ないと思うから。全員揃うと大変なんだよね」
「……お、多いわね」
「まあね。あっ、家は広いから安心してね。旅館なんだ。一番いい部屋を貸してもらうように頼んでみる」
「ちょ、ちょっと待って、初めて聞いたんだけど」
千里が九朗に待ったをかけた。
当たり前のことのようにぺらぺらと九朗は喋っているが、突然の情報量に千里は追いついていけない。
「あれ、言ってなかったっけ」
「聞いてないわよ! ご兄弟がたくさんいるとは聞いていたけど、旅館だっていうのは初めて聞いたわよ!? まさか、九朗さんって九番目の子どもだから九朗なの!?」
「そうだよ。それ以外ある?」
九朗は当然のように頷いている。
色々と初めて聞いたことばかりだが、思い返せば、結局魔術師とやらについても千里は何も知らないままだ。
「……九朗さんって、そもそもどういう人間なの」
「えっ、何その質問は」
「だって私、九朗さんのこと全然知らないままじゃない」
千里の言わんとすることを理解したのか、九朗は、ああと笑った。
「魔術について気づいたのは子どもの頃だよ。母親と青さんが知り合いで、ちょっと面倒を見てもらってた時期があったんだ。その時の縁で色々教えて貰って、力を使えるようになった。異郷倶楽部とかのオカルト趣味は全部あの夫婦からの影響だよ」
「そうだったの……」
やはり遠野夫妻は只者ではなかったらしい。
何となく察しは着いていたので今更驚きはしない。
事件が終息してからもなぜか遠野夫婦だけ例外的に神秘学術協会のことを覚えていたり、以前からと不思議なところが山ほどあった。
きっと九朗が時間を戻していたことにも気づいていて、遠回しに何度も忠告していたのだろう。
「でも、それ以外は普通の子どもだったよ。末っ子だったから兄さんたちにはいじめられたし、姉さんたちからは着せ替え人形にされてた。勉強は嫌いじゃなかったから、おかげでこの街に出てこれたってだけで、特別なところなんてなんにもない、平凡な子どもだったね」
幼い頃の九朗を頭の中で想像してみる。
年上の兄姉たちに弄ばれる九朗の姿なんて、思い浮かべるのも初めてだ。
九朗の口ぶりからして家族仲は良いようだから、きっと素敵な家なのだろうと、微笑ましい気持ちになる。
「それよりも、千里さんは僕の一番大切なことをよく知ってるじゃないか」
「え?」
何のことだと首を傾げる千里に、九朗はいつもの調子でふふんと笑う。
「僕は君のことが大好きで、これからもこの先もずっと君に夢中だってこと」
「九朗さんったら!」
真剣に考えてしまったところで揶揄われて、千里は顔を赤くして怒る。
それから、いつもは照れてばかりで素直になれない分、今日ぐらいはと思い、小さく呟いた。
「……私も好きよ。これからはもっとあなたのことを教えてね」
「千里さん……!」
九朗はもちろん聞き逃さなかったようで、すっかり感激している。
それから、ありったけの愛の言葉を次々と千里に贈りながら、幸せそうな笑顔を見せてくれた。
神秘の力も異能力ももう何も要らない。ただ、九朗と過ごすこういう平凡な日々が何よりも愛おしい。
千里はそう思いながら、アイスクリームを頬張った。



