「……あ、あの……離してくれない?」
九朗から固く抱きしめられていたが、しばらくしてから冷静になり、段々恥ずかしくなってきた。
手を繋ぐこともしていないのに、隠れてこんな場所で口づけをして抱きしめあうなんて、なんだかとてもいけないことをしているような気になってしまう。
「もうちょっとだけ、好きにさせて」
「なっ……」
服からはいつもと違って香水のような甘く深みのある香りがして落ち着かない。
しかし恥ずかしくはあるも満更ではないのもまた事実。
もう少しだけ一緒にいたい、と思うものの自分たちの状況と場所を思い出して、それどころではないと冷静になる。
「そういえば、そもそも、ここってどこなのよ?」
「隠し部屋だよ。外からじゃ分からないけど、設計図に不自然な場所があって、よからぬものでも隠されてるんじゃないかって忍び込んでみたんだ」
なんだか気になる単語が混じっていたが、ようやく九朗は離れてくれた。
隠し部屋なんて気が付かなかった。
九朗がカーテンを開くと、外の明かりが射し込んでくる。
小さな部屋の中は洋風のベッドやソファといった家具に本棚が置かれ、誰かの部屋のようだ。
「これ、見て」
九朗が指し示した先には、壁掛けの肖像画だった。
「誰……?」
肖像画には西洋人の綺麗な女性が描かれていた。
紺色のドレスを纏い、椅子に座ってこちらに微笑みを向けている。髪は真っ白な白髪だったが、その容姿は若々しく美しい。
「吸血鬼エウリュディケ。この本によると、彼女はそういう名前らしい」
「吸血鬼……!?」
どこかの貴婦人かと思いきや、吸血鬼という言葉が出てきて驚いた。
吸血鬼という西洋の怪異について、遠野から教えてもらったばかりだ。
絵の中の女性は、人の生き血を啜る化け物には到底見えないが、確か、あの時遠野が持っていた本に描かれていた女性も美しい容姿をしていた。
だがこの女性が神秘学術協会の機密のどこに繋がるのかと、千里は首を傾げる。
「前に、オルフェウスの冥府下りの話をしたの、覚えているかい」
「ああ、あの映画の……確か、亡くなった妻を追いかけたけれど、失敗してしまったのよね」
以前のデートの時の話だ。
本来の目的は有紗と京矢を二人きりにさせるためだったが、二人きりで映画を見た時のことはしっかり覚えている。
「神秘学術協会の名前『オルフォイス』っていうのは独語で言うオルフェウスのことだ。そして神秘学術協会は死者を甦らせる秘術の開発を目的としている。さらに、エウリュディケはオルフェウスの妻の名前だ」
「ええっと、つまり……?」
「神秘学術協会の創設者は、オルフェウスに当たる人物だよ」
つまり、神秘学術協会は、ある人物が亡き妻を甦らせるために作った団体だということか。
九朗は本棚から一冊選ぶと千里に見せる。
表題は外国語で千里には読めない。代わりに九朗があらすじを説明してくれた。
「この本に、ある物語が記されている。美しい吸血鬼の女性エウリュディケを巡る二人の男の話だ。彼女は恐ろしい力を持つ魔術師の伯爵に強引に娶られ、城で監禁されていた。しかしある時、エウリュディケの兄が彼女を救出し、二人は国を出て逃亡の旅に出る。辿り着いたのは極東のある島国。二人は慎ましく幸せな暮らしを続けていたが、ある日、伯爵の呪いによりエウリュディケは命を落としてしまう――――」
極東の島国、というのはこの国のことだろう。
そこで千里は、ある話を思い出した。
『確か、和蘭から来た船だったかなぁ。さる高貴な身分の夫婦の正体は、人喰いの鬼だとか話題になったことがあった』
遠野が語ってくれた吸血鬼の話だ。結局、怖くて最後まで聞くことはできなかったが、もしや、その夫婦というのはエウリュディケと兄のことではないだろうか。
てっきり人喰い鬼の夫婦が人を食べる場面だとばかり思っていたが、結末を聞いていないので、伯爵の呪いによりエウリュディケが死んでしまった場面だったと読み替えることもできる。
どちらにせよ、この二人は悪しき伯爵から逃れられず、この島国で儚く命を散らしたということだ。
「でも、エウリュディケさんはずっと遠い昔の人じゃないの? 神秘学術協会は、近年になって設立された団体のはずだわ」
「青さんが教えてくれた、異能力の条件について覚えているかな。エウリュディケは、ある特殊な能力を持っていたんだ。千里さんもよく知っている、『未来予知』という稀有な能力だよ」
千里はあっと息を飲む。
『異能力を持つ者の子孫がその力を継承する』
青はそう語っていた。
国を支配する恐ろしい魔術師の伯爵に無理やり娶られた吸血鬼の姫君……彼女と同じ力を千里が持つということは、つまり。
(私もしくは姉さんがその姫君で、魔術師の伯爵かエウリュディケの兄が早瀬さん……?)
だから早瀬亨は、自分か有紗のどちらかとの結婚を申し出たというのか。
「まさか、神秘学術協会は伯爵か、兄の子孫が設立したということ?」
「その通り。そして、エウリュディケの子孫は他でもない、朝霧家なんだ」
やはり、と千里はもう驚かなかった。
ここまで来たら理解せざるを得ない。
早瀬亨は未来で有紗のことを吸血鬼にしようと実験を行っていた。
有紗がエウリュディケの子孫であるのならば、有紗の体を使い亡くなった妻を甦らせようとしたと考えても不自然ではない。
そして、未来予知で有紗はこうも言っていた。自分が死んだら次は千里……つまり、千里も同様に同じ血を持つ人間であるため、エウリュディケを復活させる為に利用できる、ということだ。
早瀬亨が神の子と呼ばれているのも、魔術師の力を使えるからなのだろう。
子孫というが、それほどまでにエウリュディケの血筋に執着するのならば、もしかすると本人なのかもしれない。
その力がどのようなものか実際に目で見てはいないが、未来予知で見た有紗の姿はとても信じられないものだった。
「早瀬亨という人物は、確実に千里さんの命を狙っている。ここにいるのは危険だ。とにかく、婚約だけでもなんとか解消しないと」
「あのね、九朗さん。私、思ったのよ」
険しい顔の九朗に、千里は自分なりの考えを話してみる。
「神秘学術協会のせいでたくさんの問題が起きているんだから、そもそも、協会を潰すか乗っ取るかしてしまえばいいんじゃないかって」
「乗っ取るって……」
「私が『神の子』とやらになろうと思って。そうすれば、協会の人たちは誰も私に逆らえなくなるでしょ」
九朗はぽかんとしてから、声を上げて笑い出した。
「……はははっ! そうか、そうか! 良い考えだ、確かにそれも一理あるね!」
「わっ、笑わないでよ! それに、九朗さんこそ一人で乗り込んできてどうするつもりだったのよ」
「それはもちろん僕の姫君を救出に」
「救出って、どうやって」
「電気系統を故障させて晩餐会を中止にさせるつもりだった。婚約発表をとにかく阻止したくてね」
九朗も九朗でなかなか思い切った作戦を考えているではないか。
それこそ犯罪スレスレで、危険極まりない。
千里は呆れてしまいそうだったが、九朗は真剣そのものだった。
「いっそのこと攫ってしまえたら良かったんだけど、千里さんはお母上のことを気にするだろうからって有紗さんから止められちゃったんだ」
母のことを言われるとは、意外だった。
確かにそうだ。たとえ駆け落ち同然に逃げられたとしても、千里は母のことをずっと気にしてしまうだろう。
母のことを嫌悪しておきながら、どうしても、母への想いを捨て切ることができない。
有紗はそれを見抜いていたのだ。
「……そうね。ありがとう」
小さく呟けば、九朗は千里の頭を優しく撫でる。
いつもなら跳ね除けてやるところだが、大人しくされるがままだった。
九朗から固く抱きしめられていたが、しばらくしてから冷静になり、段々恥ずかしくなってきた。
手を繋ぐこともしていないのに、隠れてこんな場所で口づけをして抱きしめあうなんて、なんだかとてもいけないことをしているような気になってしまう。
「もうちょっとだけ、好きにさせて」
「なっ……」
服からはいつもと違って香水のような甘く深みのある香りがして落ち着かない。
しかし恥ずかしくはあるも満更ではないのもまた事実。
もう少しだけ一緒にいたい、と思うものの自分たちの状況と場所を思い出して、それどころではないと冷静になる。
「そういえば、そもそも、ここってどこなのよ?」
「隠し部屋だよ。外からじゃ分からないけど、設計図に不自然な場所があって、よからぬものでも隠されてるんじゃないかって忍び込んでみたんだ」
なんだか気になる単語が混じっていたが、ようやく九朗は離れてくれた。
隠し部屋なんて気が付かなかった。
九朗がカーテンを開くと、外の明かりが射し込んでくる。
小さな部屋の中は洋風のベッドやソファといった家具に本棚が置かれ、誰かの部屋のようだ。
「これ、見て」
九朗が指し示した先には、壁掛けの肖像画だった。
「誰……?」
肖像画には西洋人の綺麗な女性が描かれていた。
紺色のドレスを纏い、椅子に座ってこちらに微笑みを向けている。髪は真っ白な白髪だったが、その容姿は若々しく美しい。
「吸血鬼エウリュディケ。この本によると、彼女はそういう名前らしい」
「吸血鬼……!?」
どこかの貴婦人かと思いきや、吸血鬼という言葉が出てきて驚いた。
吸血鬼という西洋の怪異について、遠野から教えてもらったばかりだ。
絵の中の女性は、人の生き血を啜る化け物には到底見えないが、確か、あの時遠野が持っていた本に描かれていた女性も美しい容姿をしていた。
だがこの女性が神秘学術協会の機密のどこに繋がるのかと、千里は首を傾げる。
「前に、オルフェウスの冥府下りの話をしたの、覚えているかい」
「ああ、あの映画の……確か、亡くなった妻を追いかけたけれど、失敗してしまったのよね」
以前のデートの時の話だ。
本来の目的は有紗と京矢を二人きりにさせるためだったが、二人きりで映画を見た時のことはしっかり覚えている。
「神秘学術協会の名前『オルフォイス』っていうのは独語で言うオルフェウスのことだ。そして神秘学術協会は死者を甦らせる秘術の開発を目的としている。さらに、エウリュディケはオルフェウスの妻の名前だ」
「ええっと、つまり……?」
「神秘学術協会の創設者は、オルフェウスに当たる人物だよ」
つまり、神秘学術協会は、ある人物が亡き妻を甦らせるために作った団体だということか。
九朗は本棚から一冊選ぶと千里に見せる。
表題は外国語で千里には読めない。代わりに九朗があらすじを説明してくれた。
「この本に、ある物語が記されている。美しい吸血鬼の女性エウリュディケを巡る二人の男の話だ。彼女は恐ろしい力を持つ魔術師の伯爵に強引に娶られ、城で監禁されていた。しかしある時、エウリュディケの兄が彼女を救出し、二人は国を出て逃亡の旅に出る。辿り着いたのは極東のある島国。二人は慎ましく幸せな暮らしを続けていたが、ある日、伯爵の呪いによりエウリュディケは命を落としてしまう――――」
極東の島国、というのはこの国のことだろう。
そこで千里は、ある話を思い出した。
『確か、和蘭から来た船だったかなぁ。さる高貴な身分の夫婦の正体は、人喰いの鬼だとか話題になったことがあった』
遠野が語ってくれた吸血鬼の話だ。結局、怖くて最後まで聞くことはできなかったが、もしや、その夫婦というのはエウリュディケと兄のことではないだろうか。
てっきり人喰い鬼の夫婦が人を食べる場面だとばかり思っていたが、結末を聞いていないので、伯爵の呪いによりエウリュディケが死んでしまった場面だったと読み替えることもできる。
どちらにせよ、この二人は悪しき伯爵から逃れられず、この島国で儚く命を散らしたということだ。
「でも、エウリュディケさんはずっと遠い昔の人じゃないの? 神秘学術協会は、近年になって設立された団体のはずだわ」
「青さんが教えてくれた、異能力の条件について覚えているかな。エウリュディケは、ある特殊な能力を持っていたんだ。千里さんもよく知っている、『未来予知』という稀有な能力だよ」
千里はあっと息を飲む。
『異能力を持つ者の子孫がその力を継承する』
青はそう語っていた。
国を支配する恐ろしい魔術師の伯爵に無理やり娶られた吸血鬼の姫君……彼女と同じ力を千里が持つということは、つまり。
(私もしくは姉さんがその姫君で、魔術師の伯爵かエウリュディケの兄が早瀬さん……?)
だから早瀬亨は、自分か有紗のどちらかとの結婚を申し出たというのか。
「まさか、神秘学術協会は伯爵か、兄の子孫が設立したということ?」
「その通り。そして、エウリュディケの子孫は他でもない、朝霧家なんだ」
やはり、と千里はもう驚かなかった。
ここまで来たら理解せざるを得ない。
早瀬亨は未来で有紗のことを吸血鬼にしようと実験を行っていた。
有紗がエウリュディケの子孫であるのならば、有紗の体を使い亡くなった妻を甦らせようとしたと考えても不自然ではない。
そして、未来予知で有紗はこうも言っていた。自分が死んだら次は千里……つまり、千里も同様に同じ血を持つ人間であるため、エウリュディケを復活させる為に利用できる、ということだ。
早瀬亨が神の子と呼ばれているのも、魔術師の力を使えるからなのだろう。
子孫というが、それほどまでにエウリュディケの血筋に執着するのならば、もしかすると本人なのかもしれない。
その力がどのようなものか実際に目で見てはいないが、未来予知で見た有紗の姿はとても信じられないものだった。
「早瀬亨という人物は、確実に千里さんの命を狙っている。ここにいるのは危険だ。とにかく、婚約だけでもなんとか解消しないと」
「あのね、九朗さん。私、思ったのよ」
険しい顔の九朗に、千里は自分なりの考えを話してみる。
「神秘学術協会のせいでたくさんの問題が起きているんだから、そもそも、協会を潰すか乗っ取るかしてしまえばいいんじゃないかって」
「乗っ取るって……」
「私が『神の子』とやらになろうと思って。そうすれば、協会の人たちは誰も私に逆らえなくなるでしょ」
九朗はぽかんとしてから、声を上げて笑い出した。
「……はははっ! そうか、そうか! 良い考えだ、確かにそれも一理あるね!」
「わっ、笑わないでよ! それに、九朗さんこそ一人で乗り込んできてどうするつもりだったのよ」
「それはもちろん僕の姫君を救出に」
「救出って、どうやって」
「電気系統を故障させて晩餐会を中止にさせるつもりだった。婚約発表をとにかく阻止したくてね」
九朗も九朗でなかなか思い切った作戦を考えているではないか。
それこそ犯罪スレスレで、危険極まりない。
千里は呆れてしまいそうだったが、九朗は真剣そのものだった。
「いっそのこと攫ってしまえたら良かったんだけど、千里さんはお母上のことを気にするだろうからって有紗さんから止められちゃったんだ」
母のことを言われるとは、意外だった。
確かにそうだ。たとえ駆け落ち同然に逃げられたとしても、千里は母のことをずっと気にしてしまうだろう。
母のことを嫌悪しておきながら、どうしても、母への想いを捨て切ることができない。
有紗はそれを見抜いていたのだ。
「……そうね。ありがとう」
小さく呟けば、九朗は千里の頭を優しく撫でる。
いつもなら跳ね除けてやるところだが、大人しくされるがままだった。



