いるはずのない人物に、千里は思わず声をあげてしまった。
九朗はもう一度千里を抱き締めると、小さく囁いた。
「静かに、ね」
薄暗い部屋の中、九朗の体温と胸板の感覚にどきりとするも、壁の向こうでは足音と話し声が聞こえてきて、千里は息を飲む。
「今なにか聞こえませんでしたか」
「いいや? なんだ、まだ若いのに耳鳴りかぁ?」
「違いますよ、やめてください。気のせいでしょう。それより、早く行きましょうよ。埃臭いんで、僕、あんまり資料室好きじゃないんです」
間一髪、難を逃れたようだ。
もう少し遅ければ、悲鳴を聞かれていたところだろう。
九朗は千里を包み込むように抱きしめいて、まるで守られてるかのような感覚がした。
窓のカーテンの隙間からは、溢れた光が逆光となっている。
どうしてここに九朗がいるのか、この場所はなんなのか聞きたいが、それよりも千里を一番混乱させているのは。
(え、今、私、九朗さんに、え?)
キス、口づけ、接吻。
そんな単語が頭の中をぐるぐると飛び回る。
確かに九朗は千里に口づけをした。
あたたかな唇の温度がまだ残っている。当然、口づけなんて初めてだった。
ずっと会いたいと思っていた人が目の前に現れて、自分に口づけをして抱き締めてくれている。
あまりの状況に、千里の脳は処理が追いつかなかった。
(夢? また、未来予知の中にいるの? 九朗さんが、私に、キ、キスなんて)
初めての口づけは、檸檬の味……なんて言い出したのはどこの誰だったか。
檸檬どころか、どんな味がしたかなんて考える余裕すらなかった。
「あったぞ、例の名簿だ。ちゃんと高値で売れるんだろうな?」
また話し声が聞こえてきて、千里の意識は現実に戻ってくる。
「当然ですよ。信頼している新聞社相手なんで、安心してください」
「分前は半分だからな。しかし、選挙前に議員の不祥事をでっち上げたいからってこんなわけのわからん研究団体まで手を出すかね」
「今どき不老不死を謳う怪しい団体なんてわんさかありますよ。それ自体に目新しさはなくても、ここは関わってる連中の格が違いますからね」
ははは、と二人分の笑い声が聞こえてくる。
彼らは目的を果たしたのか、ドアの開閉音と共に足音は通り過ぎていく。
資料室から出ていったようだ。
世間話にしては話の内容はなんだか怪しげだったが、これでようやく一息つける。
「千里さん、大丈夫?」
九朗が手を離したことで、千里はようやく解放された。
「あ、えっと……」
九朗の顔を見上げた途端、頬が熱をぽっと持つ。
言いたいことや聞きたいことはたくさんあるのに、どうして良いのか分からない。
口ごもる千里を前に、九朗はいつもの飄々とした笑顔を浮かべる。
「どう? この白衣と背広。似合ってるかな。白衣は学校ので、背広は京矢から借りたんだ。研究者っぽくなるかなって。汚したら絶対弁償しろってすっごい顔されたよ」
「そ、そう……」
ふふん、と自慢げな顔をされて脱力してしまいそうだった。
確かに、今日の九朗はいつもの学生服ではなく背広の上に白衣を羽織っている。見慣れない姿で、そうしていると学生よりも社会人のように見える。
だが、今聞きたいのはそういうことではない。
「あの、なんでここにいるの?」
「潜入調査ってやつさ。僕の大事な眠り姫様が攫われちゃうのを、黙って見てるなんて出来るわけないからね」
「それはどういう……」
「有紗さんから聞いたんだよ。結婚するんだってね」
まさかと思ったが、やはり有紗が伝えてしまったのだ。
なんてことをしてくれたのだと頭を抱えてしまいそうになる。
「ひどいじゃないか。僕に黙って決めるなんて。他にいくらでも方法があったはずだろ」
「……そんなの、私の勝手でしょ。九朗さんに相談する必要なんて」
「あるよ。千里さんが僕のこと、こんなにも夢中にさせたんだから。他の男のところになんて、絶対にいかせない」
あまりに直球な言葉に、千里は顔を真っ赤にして反論できなくなる。
「……な、っ」
一度離れたはずが、九朗が再び近づいてくる。
後ずさるも、壁際に追い詰められてしまった。
千里の様子を見て、九朗はふふと笑った。
いつもの九朗らしからぬその笑みから、色気のようなものを感じられて、千里は咄嗟に目を逸らす。
「それに、僕と『こんなこと』までしちゃったのに、他の誰かと結婚できるとでも?」
九朗の指が千里の唇を優しくなぞる。
びくりと肩が跳ねる。あまりの刺激に腰が抜けてしまいそうだった。
「……ぁ、っ、だ、だって……」
せっかく付けた紅は落ちてしまっただろう。
もっとも、今の千里にはそんなことを気にしている余裕はなかったが。
いつもなら強気で言い返せるのに、表情を取り繕うことさえできなかった。
九朗の顔が近づいてくる。もう一度口づけされるのかと思い、千里はぎゅっと目をつぶった。
しかし、いつまで経っても何も起こらない。
恐る恐る目を開ければ、九朗は愛おしいものでも見るかのような目で千里を見つめているだけだった。
「ごめん、あんまりにも可愛いから、ちょっといじめすぎちゃった。無理やりキスしたのは謝るよ。でも、ああでもしないと気付かれてたからさ」
これではまるで、自分が口づけを待っていたかのようじゃないか。
千里は恥ずかしさのあまりに眉を釣り上げて九朗に詰め寄る。
「だからって、口づけじゃなくても……!」
「手で強く押さえ込んだら痛いだろう。怪我でもしたら大変だ。それとも、乱暴にされた方が良かった? これでも結構、握力あるんだよ」
そう言われて、千里は押し黙る。
口づけなんて千里からしたら一大事なのに、なんでそんなに涼しい顔をしていられるのだと睨みたくなるが、よくよく見れば九朗の耳の端が赤くなっているのに気付き、それ以上怒るのをやめた。
「仮病を使って寝込んでいるとも聞いていたから驚いたよ。未来予知を使おうとしたんだろう?」
「……そうよ。おかげで色々分かったけど、やっぱりそれだけじゃどうにも出来ないもの」
「どうして僕に相談しなかったんだ」
「だから、相談する必要なんてないって言ってるでしょ。これは私の問題であって、九朗さんには」
「関係ないって? さっきも言ったと思うけど、まだ分からない?」
千里の声を遮って、九朗は言った。
「君のことを愛しているからだよ」
その真摯な眼差しに、千里は思わず息を飲む。
「千里さんのためなら死んだっていい。誰よりも千里さんのことを愛している。千里さんが他の誰かのものになるなんて、絶対に認めたくない。そんな世界なら、滅んでしまえばいいんだ」
「……っ、まっ、まって」
「待たない。千里さんのことがどれだけ愛おしくてたまらないか、分からせてあげるから」
九朗の顔が近づいてくる。またキスをされるのかと思い、千里は慌てて九朗を押し退けた。
「わ、分かった、分かったから……!」
触れた胸板は思っていたよりも分厚くて、自分から触ったくせに恥ずかしくなる。
こうなってはもう認めるしかないと、千里はおずおずと口を開いた。
「本当に、私のこと、好きなの……?」
「好きだよ。愛してる。叶うなら、君を誰にも触れられない場所に隠して閉じ込めて、僕だけのものにしてしまいたいぐらい。たとえ千里さんが信じてくれなくても、僕は全てを捨てても構わないほどに、君のことを愛している」
そんなことまで考えていたなんて思いもよらず驚いてしまった。
千里はただ、九朗の気持ちが信じられないのではない。自分のことが信じられないのだ。
「ち、違うの。その、女性馴れしてるみたいだし、他に……仲の良い人もいたりするんじゃないかって……。なんだか、私だけが、好きだったらどうしようって思ってしまって……」
最後の方は消え入りそうな声になってしまった。
それでも九朗は、優しく千里を見つめている。
「そんなわけない。千里さんだけだよ」
「だって、私、姉さんみたいに可愛くないもの。わがままで愛想も悪くて、いい所なんて何もないわ……」
「何を言うんだ。千里さんよりも可愛い人なんて、この世界に存在しないよ。いつも言ってるだろ、素直じゃないところも全部可愛いって」
どれだけ千里が自分を否定しても、九朗はいつだって千里を大切にしてくれていた。
今こそ、想いを伝える時だ。
千里は勇気を振り絞って、自らの恋心を伝えようとする。
「あのね。私も、九朗さんのこと………………す、好き」
次の瞬間、九朗が千里に口づけをした。
千里は驚きつつ、九朗の背に手を回しそれに応える。
先程の強引なものとは違う、優しいキス。
お互いの体温で溶けてしまいそうな錯覚を起こすぐらいで、檸檬より、もっと甘くて蕩けてしまいそうな味がした。
九朗はもう一度千里を抱き締めると、小さく囁いた。
「静かに、ね」
薄暗い部屋の中、九朗の体温と胸板の感覚にどきりとするも、壁の向こうでは足音と話し声が聞こえてきて、千里は息を飲む。
「今なにか聞こえませんでしたか」
「いいや? なんだ、まだ若いのに耳鳴りかぁ?」
「違いますよ、やめてください。気のせいでしょう。それより、早く行きましょうよ。埃臭いんで、僕、あんまり資料室好きじゃないんです」
間一髪、難を逃れたようだ。
もう少し遅ければ、悲鳴を聞かれていたところだろう。
九朗は千里を包み込むように抱きしめいて、まるで守られてるかのような感覚がした。
窓のカーテンの隙間からは、溢れた光が逆光となっている。
どうしてここに九朗がいるのか、この場所はなんなのか聞きたいが、それよりも千里を一番混乱させているのは。
(え、今、私、九朗さんに、え?)
キス、口づけ、接吻。
そんな単語が頭の中をぐるぐると飛び回る。
確かに九朗は千里に口づけをした。
あたたかな唇の温度がまだ残っている。当然、口づけなんて初めてだった。
ずっと会いたいと思っていた人が目の前に現れて、自分に口づけをして抱き締めてくれている。
あまりの状況に、千里の脳は処理が追いつかなかった。
(夢? また、未来予知の中にいるの? 九朗さんが、私に、キ、キスなんて)
初めての口づけは、檸檬の味……なんて言い出したのはどこの誰だったか。
檸檬どころか、どんな味がしたかなんて考える余裕すらなかった。
「あったぞ、例の名簿だ。ちゃんと高値で売れるんだろうな?」
また話し声が聞こえてきて、千里の意識は現実に戻ってくる。
「当然ですよ。信頼している新聞社相手なんで、安心してください」
「分前は半分だからな。しかし、選挙前に議員の不祥事をでっち上げたいからってこんなわけのわからん研究団体まで手を出すかね」
「今どき不老不死を謳う怪しい団体なんてわんさかありますよ。それ自体に目新しさはなくても、ここは関わってる連中の格が違いますからね」
ははは、と二人分の笑い声が聞こえてくる。
彼らは目的を果たしたのか、ドアの開閉音と共に足音は通り過ぎていく。
資料室から出ていったようだ。
世間話にしては話の内容はなんだか怪しげだったが、これでようやく一息つける。
「千里さん、大丈夫?」
九朗が手を離したことで、千里はようやく解放された。
「あ、えっと……」
九朗の顔を見上げた途端、頬が熱をぽっと持つ。
言いたいことや聞きたいことはたくさんあるのに、どうして良いのか分からない。
口ごもる千里を前に、九朗はいつもの飄々とした笑顔を浮かべる。
「どう? この白衣と背広。似合ってるかな。白衣は学校ので、背広は京矢から借りたんだ。研究者っぽくなるかなって。汚したら絶対弁償しろってすっごい顔されたよ」
「そ、そう……」
ふふん、と自慢げな顔をされて脱力してしまいそうだった。
確かに、今日の九朗はいつもの学生服ではなく背広の上に白衣を羽織っている。見慣れない姿で、そうしていると学生よりも社会人のように見える。
だが、今聞きたいのはそういうことではない。
「あの、なんでここにいるの?」
「潜入調査ってやつさ。僕の大事な眠り姫様が攫われちゃうのを、黙って見てるなんて出来るわけないからね」
「それはどういう……」
「有紗さんから聞いたんだよ。結婚するんだってね」
まさかと思ったが、やはり有紗が伝えてしまったのだ。
なんてことをしてくれたのだと頭を抱えてしまいそうになる。
「ひどいじゃないか。僕に黙って決めるなんて。他にいくらでも方法があったはずだろ」
「……そんなの、私の勝手でしょ。九朗さんに相談する必要なんて」
「あるよ。千里さんが僕のこと、こんなにも夢中にさせたんだから。他の男のところになんて、絶対にいかせない」
あまりに直球な言葉に、千里は顔を真っ赤にして反論できなくなる。
「……な、っ」
一度離れたはずが、九朗が再び近づいてくる。
後ずさるも、壁際に追い詰められてしまった。
千里の様子を見て、九朗はふふと笑った。
いつもの九朗らしからぬその笑みから、色気のようなものを感じられて、千里は咄嗟に目を逸らす。
「それに、僕と『こんなこと』までしちゃったのに、他の誰かと結婚できるとでも?」
九朗の指が千里の唇を優しくなぞる。
びくりと肩が跳ねる。あまりの刺激に腰が抜けてしまいそうだった。
「……ぁ、っ、だ、だって……」
せっかく付けた紅は落ちてしまっただろう。
もっとも、今の千里にはそんなことを気にしている余裕はなかったが。
いつもなら強気で言い返せるのに、表情を取り繕うことさえできなかった。
九朗の顔が近づいてくる。もう一度口づけされるのかと思い、千里はぎゅっと目をつぶった。
しかし、いつまで経っても何も起こらない。
恐る恐る目を開ければ、九朗は愛おしいものでも見るかのような目で千里を見つめているだけだった。
「ごめん、あんまりにも可愛いから、ちょっといじめすぎちゃった。無理やりキスしたのは謝るよ。でも、ああでもしないと気付かれてたからさ」
これではまるで、自分が口づけを待っていたかのようじゃないか。
千里は恥ずかしさのあまりに眉を釣り上げて九朗に詰め寄る。
「だからって、口づけじゃなくても……!」
「手で強く押さえ込んだら痛いだろう。怪我でもしたら大変だ。それとも、乱暴にされた方が良かった? これでも結構、握力あるんだよ」
そう言われて、千里は押し黙る。
口づけなんて千里からしたら一大事なのに、なんでそんなに涼しい顔をしていられるのだと睨みたくなるが、よくよく見れば九朗の耳の端が赤くなっているのに気付き、それ以上怒るのをやめた。
「仮病を使って寝込んでいるとも聞いていたから驚いたよ。未来予知を使おうとしたんだろう?」
「……そうよ。おかげで色々分かったけど、やっぱりそれだけじゃどうにも出来ないもの」
「どうして僕に相談しなかったんだ」
「だから、相談する必要なんてないって言ってるでしょ。これは私の問題であって、九朗さんには」
「関係ないって? さっきも言ったと思うけど、まだ分からない?」
千里の声を遮って、九朗は言った。
「君のことを愛しているからだよ」
その真摯な眼差しに、千里は思わず息を飲む。
「千里さんのためなら死んだっていい。誰よりも千里さんのことを愛している。千里さんが他の誰かのものになるなんて、絶対に認めたくない。そんな世界なら、滅んでしまえばいいんだ」
「……っ、まっ、まって」
「待たない。千里さんのことがどれだけ愛おしくてたまらないか、分からせてあげるから」
九朗の顔が近づいてくる。またキスをされるのかと思い、千里は慌てて九朗を押し退けた。
「わ、分かった、分かったから……!」
触れた胸板は思っていたよりも分厚くて、自分から触ったくせに恥ずかしくなる。
こうなってはもう認めるしかないと、千里はおずおずと口を開いた。
「本当に、私のこと、好きなの……?」
「好きだよ。愛してる。叶うなら、君を誰にも触れられない場所に隠して閉じ込めて、僕だけのものにしてしまいたいぐらい。たとえ千里さんが信じてくれなくても、僕は全てを捨てても構わないほどに、君のことを愛している」
そんなことまで考えていたなんて思いもよらず驚いてしまった。
千里はただ、九朗の気持ちが信じられないのではない。自分のことが信じられないのだ。
「ち、違うの。その、女性馴れしてるみたいだし、他に……仲の良い人もいたりするんじゃないかって……。なんだか、私だけが、好きだったらどうしようって思ってしまって……」
最後の方は消え入りそうな声になってしまった。
それでも九朗は、優しく千里を見つめている。
「そんなわけない。千里さんだけだよ」
「だって、私、姉さんみたいに可愛くないもの。わがままで愛想も悪くて、いい所なんて何もないわ……」
「何を言うんだ。千里さんよりも可愛い人なんて、この世界に存在しないよ。いつも言ってるだろ、素直じゃないところも全部可愛いって」
どれだけ千里が自分を否定しても、九朗はいつだって千里を大切にしてくれていた。
今こそ、想いを伝える時だ。
千里は勇気を振り絞って、自らの恋心を伝えようとする。
「あのね。私も、九朗さんのこと………………す、好き」
次の瞬間、九朗が千里に口づけをした。
千里は驚きつつ、九朗の背に手を回しそれに応える。
先程の強引なものとは違う、優しいキス。
お互いの体温で溶けてしまいそうな錯覚を起こすぐらいで、檸檬より、もっと甘くて蕩けてしまいそうな味がした。



