朝霧家のわがままな義妹

 千里は愕然とした。尚政の言っていることの意味が理解できなかった。


「ど、どういうことですか……? 早瀬さんが、そんなことを?」
「だから、そうだと言っているだろう。まあ、彼は君のことを気に入っているようだったからな。私はやめた方がいいと止めたんだが、本人が望むのであれば仕方がない」
「尚政さん、ごめんなさい、千里が急にこんなわがままを言うなんて……。普段は本当にいい子なんです」


 喜久子に頭を下げさせられるが、尚政は気にする素振りも見せなかった。

 
「なんにせよ、朝霧家の娘と縁を結びたいという話なのだから向こうの要望には沿っているだろう。君も、嫁入りまでにもう少し勉強に励むといい」


 もしかすると、亨は自分に向けられている好意に気づいていたということなのか。

 確かに以前から千里は亨のことが好きだった。だがその好きは恋愛感情ではなく、憧れの意であり、決して彼と深い仲になりたいなどと思ったこともなかった。


「わ、私……本当に……」


 思わず声に出てしまう。呆然としている様子の千里を、二人は嬉しさのあまりにそうなったのだと解釈したらしい。

 喜久子たちは話を続けているが、千里の耳にはもう何も入ってこなかった。


(本当に、早瀬さんと結婚するの?)

 
 亨と自分が結婚する未来を思い浮かべ、未来で見た姉の悲痛な叫びと、九朗の顔が思い浮かんだ。


『千里さんが有紗さんに幸せになって欲しいと願うように、僕も千里さんに幸せになって欲しいんだ……!』


 以前、彼はまるで自分の事のように必死な顔で千里にそう訴えかけた。

 出会った時から、九朗は千里の自罰的な面に度々言及していたが、どうして彼がそこまで自分を気にかけるのか、千里には分からなかった。

 きっと未来予知のことを伝えれば、亨との結婚にも反対してくれただろう。

 本当は、九朗がずっと自分のことを大切にしてくれていたことを分かっていた。

 飄々としていて格好つけたがりだけれど、九朗が千里のことを蔑ろにしたのは一度もなかった。

 出会った時から未来予知なんて荒唐無稽な話を信じて、ずっと協力してくれていた。

 ただのお人好しで親切だというわけではないことぐらい、千里は理解していた。

 それでも長年のひねくれた性格が、その事実を受け入れようとしなかっただけだ。


(もし……九朗さんと出会わなければ)


 九朗と出会わなければ、この結婚にどれだけ喜べただろうか。
 憧れの素敵な男性と結ばれることに、何の違和感もなく受け入れられただろう。

 だが、今の千里の頭の中にいるのは亨ではなく九朗ただ一人だった。


(私、九朗さんのことが……好きだったんだ……)


 千里はようやく認めた。
 九朗ではない別の人と結ばれる未来を想像して、嫌だと、そうはっきり思ってしまった。

 亨への不信感からの嫌悪ではない。

 自分の隣にいるのは九朗であって欲しいと、願ってしまったからだ。
 

 ずっと千里のことを大切にしてくれて、千里の幸せを願ってくれた、誠実なあの青年に、千里自身もいつのまにか心奪われていた。

 自ら亨との結婚を申し出たのにも関わらず、添い遂げるのは九朗が良いと、わがままにも願ってしまった。


(今になって気づくなんて、私は……)


 だが、有紗を救うために今更身を引くことなどできない。

 それに京矢との未来が変わったように、未来の亨も変えることができるかもしれない。

 既に有紗と亨との結婚という未来は変わったのだから、未来予知で見た通りにはならないはずだ。
 
 だが、千里が無理やり思い込むようにしたところで、尚政が信じられないことを口にした。


「早瀬亨は我々の次代を担う神の子だ。彼に嫁ぐことがどれ程の栄誉であるか、理解しておきなさい」
「……え」


 神の子、とはなんだろうか。
 全くもって理解のできない唐突な単語に、千里は上手く返事が出来なかった。


「早瀬亨さんは神秘学術協会において非常に重要な人物なのよ。まさか、知らなかったわけじゃないでしょう?」


 喜久子は目を丸くしているが、千里はそんな話は知らない。初めて聞いたに決まっている。
 だが、混乱すると同時に、千里は自分がおかしな思い込みをしていたことに気づく。


(待って。早瀬さんと協会に繋がりがないなんて、どうして思い込んでいたの……?)


 協会に入れ込む尚政が目をかけている若者となれば、協会の関係者に決まっている。

 突然の縁談の理由だって、協会であるのなら不自然ではない。

 千里にとっては憎むべき敵であるはずの団体と、亨に関係がないはずがないのに、どうして今までそんなこと考えたことがなかったのか。
 冷水を浴びせられたような気分だった。


 早瀬亨という人物について、千里は何も知らなかった。

 知ろうとすらしなかった。

 彼の存在に一切の疑念を抱かず、当然のように接していた。
 いつからか朝霧家を訪れるようになった、素敵な好青年。
 朝霧家に来たばかりの幼い頃から知っているはずの人。

 何年も経っているはずなのに、亨は出会った頃と変わらず、若く美しい青年のままだ。


「あなたもそろそろお勉強をしなくちゃね。嫁ぎ先のことを何も知らないままだなんて、私の育て方が疑われてしまうわ」


 喜久子が呆れたように言いつつ、棚から冊子を取り出して千里に渡す。


「これは……」
「協会の教本よ。私たちがどのような考えに基づき生命の神秘を研究しているのか、しっかり読み込んで理解しなさい」


 千里は驚きのあまり、勢いよく顔を上げて喜久子を凝視する。

 
「千里。私が若くて綺麗なままなのも、協会のおかげなのよ。西洋の革新的な技術のおかげで私は美しい姿を保っていられるようになったの。お母さんが綺麗であなたも嬉しいでしょう?」
「母さん、何言って……」


 見たこともないような喜久子の表情に、千里は思わず冊子を持つ手に力が入る。

 確かに我が母ながらいつも美しいとは思っていた。
 だがそれが、高価な化粧品や美容液による努力の賜物ではなく、胡散臭い新興宗教まがいの団体によりもたらされたものだなんて誰が思うだろうか。


『話の内容は良く分からないけど、愛想良くもてなしてれば喜んで仲間に入れてくれたわ。暇を持て余した金持ちの集まりなんてそんなものよ』


 昔の喜久子は千里の前では尚政の思想を小馬鹿にして、冷めた表情でそう語っていた。

 それが、今はまるで違うではないか。

 尚政は夫婦としての関係を求めないことを引き換えに喜久子と千里を迎え入れたはずだった。
 明治百年まであと数十年といえど、この時代、愛のない見合い結婚など溢れていると言ってもそんな稀有な条件を容易く飲む女性はそうそういない。

 だからこそ喜久子は尚政から信頼を得て、良好な関係を築けたはず。


(打算的なこの人が、自分からその関係を壊すはずがない。だったら、本当にその生命の神秘とやらを信じて……?)


 神秘学術、西洋では超自然的なものを扱う学問を指す言葉だと九朗から教えてもらったことがあった。

 この国で近年乱立する団体が行っているものは、学問とすら言い難いまやかしでしかないとも。

 そのまやかしが真になるとしたら――――その先のことは、千里には恐ろしくて考えられなかった。