朝霧家のわがままな義妹

 悩んだ末、千里は再びセイレーンの館を訪れていた。勝手に封筒の中身を読むわけにはいかないが、知らないままではいられない。

 しかし、京矢の勤め先がどの写真館なのかを千里は知らないので、仕方なくセイレーンの館に来たのだ。
 きっと京矢か九朗がいるだろうと思ってのことだったが、千里を出迎えてくれたのは予想外の人物だった。


「おやおや、可愛いお客さんだね。いらっしゃい」
「こ、こんにちは……」


 背の高い、優美な顔立ちの男性だ。初めて見る人だった。
 もしや、異郷俱楽部の会員かと考えるも、彼はそうではないようだった。


「すまないね、妻は今出かけているんだ。もうすぐ戻ってくるだろうけれど、急ぎの用かな?」


 妻?
 千里はぽかんとしてから、九朗から青は既婚者だと聞いていたのを思い出した。
 とすると、目の前にいるこの男性こそが青の夫なのだ。

 
「あ、いえ……あの、佐倉さんって今日はいらっしゃいますか?」
「京矢くん? もうすぐ来るんじゃないかな。せっかくだし、こっちで待っていたらどうだい。温かい飲み物でも用意しよう」


 確か九朗は、遠野さんと呼んでいた。千里は案内されるがまま、二階に上がっていく。
 そこではバーのようなカフェのような、カウンターが設置されていて、一角だけお洒落な飲食店のような内装になっていた。コーヒー豆の香りがふわりと漂っていて、さながら純喫茶にいるかのようだった。

 スツールに腰掛けて、食器を取り出し準備している遠野を見る。

 青と九朗に恋愛関係があるのではないかと疑ってしまった、なんて口が裂けても言えない。
 ひとりでに居心地の悪さを感じて、視線を他に移す。


 (これ……は……?)
 

 紫水晶のような大きな天然石に、壁にはよくわからない生物が描かれた絵がかけられている。
 華やかなディスクオルゴールも置かれていて、棚の中に植物の標本のようなものが並んでいる。

 実に混沌とした家具たちだが、ごちゃごちゃした雰囲気が、かえって今の千里には眺める場所が多くて助かった。


(この本は、何かしら……?)


 カウンターの隅には、洋書が置かれていた。タイトルは英語で『Carmilla』と書かれている。


「お待たせ。ココアで良かったかな」

 
 これもオカルト関連の書籍なのだろうかと眺めていれば、遠野がティーカップをソーサーに乗せて出してくれた。


「ありがとうございます。いただきます」


 湯気の立つティーカップに手を伸ばす。
 ふわりと甘い香りが口の中に広がった。
 

「良かった、青さんは君は甘いものの方が嬉しいだろうからって言ってたからさ」
「え?」
「君、朝霧千里ちゃんでしょ。待ち人は九朗くんじゃなくて、京矢くんなんだね」
「そ、れは……預かり物があるだけです」


 どうやら九朗は、夫婦に対して千里の話をしているらしい。
 遠野のにこにことした訳知り顔は、どことなく九朗を想起させるようだった。

 何となく気まずさを感じ、ココアを飲みながら視線を他に移す。


(青さんはどちらにいらっしゃるのかしら……)


 初対面の男性と二人きりは落ち着かない。
 京矢に手紙を渡してその場で中身を聞き出すだけのつもりだったから、早く来ないかと待ちくたびれてしまいそうだった。


「それ、気になる? 吸血鬼カーミラって本だよ」
「吸血鬼、ですか……」


 ぼーっと眺めていると、向こうから話しかけられてしまった。
 遠野がカウンターの向こうで、優雅な笑みを浮かべながら千里を見ている。

 
「愛蘭土の怪奇小説さ。美貌の貴婦人、女吸血鬼カーミラの物語。乙女の生き血を啜る美しき怪物の、甘美なる情欲を描く恐ろしくも耽美な世界だ。僕が訳したものもあるけれど……お嬢さんには、少し早いかな」


 なんとなく自分にはまだ難しそうな内容だということは理解した。

 本の内容を語る遠野の声は、どこか艶があって独特よの色気を感じさせるものだった。

 なんだかいけないことをしているような気分になって、千里は頬の熱を誤魔化すかのように遠野にもっと内容を尋ねる。


「吸血鬼って、なんですか」
「人の生き血を啜る、不死の怪物さ。西洋の世界では昔から様々に言い伝えられていて、ヴァンパイアやダンピールといった呼び名もある」
「人を食べてしまう、ということなんですか?」


 人喰いの鬼の昔話を思い出して、千里は少し怖くなる。
 だが、遠野はのんびりと軽やかな口調で話を続けた。
 

「食べるものもいるけれど、基本的には血液だね。人を惑わす妖しい力を持つけれど、日光に弱く、心臓に杭を打たれると死ぬ。他にも香りの強い香草が苦手なんて話もあるけれど、創作においては人気の題材だから、色々な通説があるよ」
「陽の光に弱く、血を……」


 ハッと気が付く。
 そんなような話を夢の中で聞いたばかりではないか。

 夢の中、つまり別の未来の有紗は、早瀬亨の手によって何らかの方法で人外へと体がつくり変えられてしまった。
 陽の光が浴びられず、他者の血を養分とし、そして。


「もしかして、鏡に映らない、とか……」


 恐る恐る口にした千里に、遠野は驚きを見せた。
 

「おやおや、よく知っているね」


 明らかにこういった分野に明るくない千里が、そんな知識を持っているとは思わなかったのだろう。


「その通りさ。吸血鬼は実体と魂の結び付きが無いために鏡に映らないなんて設定もあるよ」
「設定、ということは本当の話じゃないんですか」
「いいや。どんなに荒唐無稽な嘘も、世の人々が信じれば本物になる。ただの作り話がやがて人々に真の話だと受け入れられるようになり、元からあった性質が変化していく。ほら、あれだ。嘘から出たまことって、昔から言うだろう?」
「はあ……」


 元から存在しないものでも、人々の認知によって作り出されてしまうということなのだろう。

 違う未来の有紗は、どうやら吸血鬼にされてしまったと考えて良いらしい。

 だが、それならばなぜ亨がそんなことをするのだと千里は首を傾げる。


(早瀬さんの正体は吸血鬼……? でも、早瀬さんは紛れもなく普通の日本人で西洋の化け物ではないはず……)


 幸いにして遠野は吸血鬼に詳しいようだから、この際とにかく得られる情報は全て得たいと、千里は質問を続ける。


「あの、日本にも吸血鬼っているんですか?」
「いるよ、もちろん」

 即答だった。


「もしかすると、君の近くにも……なんてね。気になるのなら教えてあげるよ。外つ国の鬼が、どうやってこの国に現れたのか」


 遠野の瞳は爛々と輝くような妖艶な色を放っている。
 九朗とは似ても似つかない眼差しに、千里は息を飲んだ。