朝霧家のわがままな義妹

 セイレーンの館を訪れたその日の晩、千里は布団の中で眠れずにじたばた寝返りを繰り返していた。


(別に、九朗さんが思わせぶりなことばかり言うせいで、私が自分から好きだとか、思ってるわけじゃないから……!)


 だがそう思うと同時に、遠野青という大和撫子を体現したかのような青と九朗が並ぶ姿を想像して、妬いたのは紛れもない事実だ。

 もっとも青は既婚者であったため、千里の思うようなことはなにひとつとしてないのだが、このところ妄想力は日に日に激しくなるばかりでいらないことまで想像してしまう。


(もし、九朗さんにも他に仲の良い女の子がいたら……いるわよね、絶対……)


 恥ずかしがって暴れていたのに、次はなんだか悲しくなってきてめそめそ泣きたくなってくる。
 九朗みたいな明るい男、周囲が放っておかないだろう。

 例えちょっと趣味が悪いとしても、見目もよく話し上手で気遣いもできる九朗なんて、さぞ人気を集めるに違いない。


(他にも女の子がいるなら、あんな顔で、私に優しくしないでよ……)
 

 千里はいつの間にか自分にとって九朗は魅力的な人である、ということを認めていることにも気づかず、九朗が別の女性と並んで歩く姿を想像してはひとりでに苦しんでいた。

 少女雑誌やら恋愛小説やらしか読まないおかげで、千里の妄想の中での九朗は、物語に登場する色男さながらの様相になってきている。


(九朗さんのことなんて考えてる場合じゃないのよ! 何とかして、姉さんの未来を守らなきゃなんだから……)


 頭の中の色男をなんとか隅に追いやると、有紗のことを思い浮かべる。
 
 近頃は京矢との文通が楽しくて仕方がないのか、家の中でもずいぶん笑顔が増えた。
 
 喜久子も有紗が明るくなったことに気づいてはいるが、理由が全く思い当たらないので、何故なのかと苛立っている様子だ。
 もちろん千里はそれを見て影でほくそ笑むわけである。


(母さんも意地悪ばっかりしないで……いい加減諦めて、姉さんと仲良くすればいいのに……)


 そうしているうちに眠気が襲ってきて、千里の意識はゆっくりと沈んでいった。




 ガシャン、と硝子が割れる音が響く。

 気づけば千里は、知らない家の中にいた。

 木目の床に洋式の家具、知らない洋館の中で、千里は呆然と立ち尽くしていた。


 視線の先にいるのは、姉、有紗の姿だ。

 薄い白のワンピースを身にまとい、長い黒髪はそのまま流している。こんな姿は初めて見た。
 
 床には割れた鏡が散らばり、有紗は涙を流しながらうずくまっている。


『千里ちゃん……私、もう……』
『姉さん、しっかりして。きっと大丈夫よ』


 千里の口は自然と動いていた。

 そこでようやく、千里は自分が夢の中にいることに気づく。


 何度目かの感覚……これは、夢では無い。未来を見ているのだと、すぐに察知した。
 瞬間、未来の記憶が千里の頭の中に流れ込んでくる。


 そうだ、姉の有紗が結婚した後のことの話だ。

 誰と……もちろん、『早瀬亨』とだ。


 有紗は父の尚政が信仰する神秘学術協会の為に亨と結婚した。

 政略結婚だったが、亨は有紗に変わらず優しく、結婚当初は有紗も幸せそうだった。

 有紗が家を出て亨と素敵な洋館で暮らし、やがて子をもうけ、それはもう幸せに暮らしていくのだと、かつての千里は思っていた。


 けれど、結婚生活が破綻したのはそれからすぐのことだった。


『亨さんは、体が順応しているからだと言っていたけれど、日に日に人間じゃなくなっていくみたいで、もう耐えられないの……!』


 有紗は涙を流して千里に訴えかける。
 かつてあれほど気丈に振舞っていた明るい姉とはまるで違い、弱りきった姿だった。

 有紗と亨の結婚は、神秘学術協会のため。
 つまり、有紗は生命創造の理念のため、『実験』の被検体として扱われていたのだ。


『陽の光に当たれなくなって、食事の味がしなくなって、亨さんに血を与えて貰わなければまともに動けやしない! それに、とうとう鏡にも映らなくなってしまったわ……!』


 割れた破片は千里の姿こそ映れど、有紗の影すら映さない。


『もう嫌よ。亨さんは私を愛していると毎晩慰めてくださるけれど、亨さんが愛しているのは私じゃないわ。何百年も昔に死んだはずの、あの人の……』
『姉さん、落ち着いて』


 過呼吸を起こしてはいけないと、千里は有紗をなんとか落ち着かせようとする。
 手を握って背を支え、寝台に誘導すれば、有紗はようやく少し落ち着きを取り戻した。


『ごめんなさい、千里ちゃん。あなたの前で、こんな姿を見せたくなかったのに』
『いいのよ。そんなの気にしないで。私たちは姉妹なんだから、助け合わなきゃ』


 横たわる姉の肌は青白く、あれほど泣いて叫んだというのに赤みすらささない頬は、まるで生気が感じられない様子だった。


『……お仕事はどう? 楽しい?』
『うん。大変なこともあるけれど、順調だよ。母さんは早く協会の誰かと結婚して皆様の役に立てってうるさいけど、今は仕事が楽しいからしたくなくって』
『そう、よかったわ……』


 有紗は微笑んでくれるが、千里の内心はぎゅっと締め付けられるかのようだった。
 有紗が家を出たことで千里は職業婦人を目指し、母の反対を押し切って街で働くようになったのだ。

 
 有紗が幸せになれたのなら、自分も自分なりの幸を見つけてみよう……なんて思ったからだが、結果的に千里は自由になり、有紗は未だ囚われているという状況になってしまった。


 こんなはずではなかったと悔やむものの、有紗を連れて亨から逃げることなど到底出来そうもなかった。

 世間体のためではない。有紗の体は、もはや手遅れだと薄々気づいていたからだ。

 血色の悪さだけではない。

 有紗と自分の間には、もはや明確な隔たりがあるのだと理解せざるを得なかった。

 こんな有紗の姿を見ても、ひとつも心配しないどころか実験を続ける亨を信じてしまった、自分の愚かさが悔やんでも悔やみきれない。

 他人の優しさは期待の裏返しだと母が常々言っていたことは、残念ながら正しかったのだ。


『姉さん、一度早瀬さんとちゃんと話し合ってみたら? このままじゃ、姉さんの体がもたないよ』
『無理よ。あの人はそんなこと気にしないわ。だって、私の替わりはここにいるもの』


 即答だった。
 替わりはここにいる……そう、有紗の隣に、今まさにいる千里のことだ。

 
『私が死ねば、次に亨さんの実験台にされるのは千里ちゃんなのよ! そんなの、私は耐えられない……!』
『姉さん、待って……!』


 有紗は血走った目で千里に迫る。
 左手で肩を捕まれ、ぐっと強い力をかけられる。
 その細腕からは想像もできない、強い力だった。


 有紗の右手には鏡の破片が握られていた。
 有紗はそれを振りかざす。


『だから、お願いよ。千里ちゃん。私と一緒に、ここで死んで』


 ぐさり。
 首から鮮血が噴き出して、千里の意識は薄れていく。
 千里は死の間際で、ようやく有紗の心からの笑顔を見ることができた。



 
「っ……あああっ!?」

 千里は絶叫しながら飛び起きた。
 荒く息をしながら、首元に手をやり、刺されたところに傷が無いことを確認する。

 現実に、戻ってきたのだ。