「あら姉さん、いつまで掃除なんてしているのかしら! ほこりだらけでみっともないじゃない!」
甲高い声で罵って見せれば、姉の有紗は雑巾片手に穏やかに微笑む。
「まあまあ千里ちゃん、お手伝いに来てくれたの? 千里ちゃんは本当に優しい子ねぇ」
にこやかに笑い、罵られたことにも気づかないどころか、盛大な勘違いまでしている。
相変わらずな姉の様子に千里はため息をつきながら、有紗の手から雑巾を奪った。
「早く顔を洗ってきて。姉さんがみすぼらしい格好をしていたら、この家の品格が疑われるじゃない」
「そうね、ありがとう。千里ちゃん」
裕福な家の娘のはずなのにこの姉は困ったことに家事の手伝いが大好きで、暇さえあれば掃除に料理の手伝いにと働いてばかりだ。
出会った頃から、有紗は身の回りのことはなんでも自分でやろうとする変わった人だった。
千里の母親がかんしゃくを起こし何人も使用人を解雇するようになってから、その性格に拍車がかかったとも言える。
朝霧家の正当な跡継ぎは有紗だと言うのに、日当たりの悪い隅の部屋に押しやられても、有紗に優しかった女中たちが突然解雇されても、有紗はいつだって不満をもらすことはなかった。
ただいつものように人の好さそうな笑顔を浮かべるばかり。
千里は有紗のそういうところが、大嫌いで痛ましくて、見ていられなかった。
「文句の一つでも言ってみなさいよ、馬鹿らしい……」
母屋と違って離れはしんと静まっていて、陽の光も差してこない。
せっかく有紗が綺麗に磨いた廊下も、どことなく寂しげな雰囲気が漂っていた。
いっそ、面と向かって恨み言の一つや二つはいてくれたら、どれだけ楽になれただろうかと何度も思った。
姉に辛い状況を押しつけているのが、ほかでもない自分とその母親だという現実が、有紗には見えていないとでも言うのだろうか。
千里の母が亡くなり、妻を深く愛していた朝霧家の当主朝霧尚政は悲しみに暮れるばかりか「死者を甦らせ、生命の神秘を解明する」とのたまうわけのわからない研究団体にのめり込み、有紗には一切の関心を持たなくなった。
そして尚政の思想に賛同するふりをして朝霧家に忍び込み、女主人として我が物顔で居座っているのが千里の母、喜久子だ。
母は小劇場の女優だった。しかし、結婚の約束をしていた男はある富豪の跡取り息子であり、母は恋人ではなくただの不倫相手だった。
男に騙され捨てられた母は、それ以来持ち前の美貌と演技力を活かして、自分がされたのと同じように男を騙し、金をむしり取ることで暮らしてきた。
朝霧家には亡き夫を想い娘と泣き暮らす哀れな親子という設定で潜り込み、当主が夢中になっている新興宗教めいた怪しい団体の思想に賛同し、お互い亡き配偶者との生活を取り戻すまで協力し合うという形で後妻に収まった。
もちろん、愛する亡き夫などいない。千里は自分の父親の名前も顔も知らなかった。
外で無理に愛想ばかり振りまいているおかげか、母はいつも不安定な精神状態で、千里を可愛がり抱きしめて眠る日と、顔も見たくないと寒空の下追い出すような日が交互に繰り返されるような生活が交互に繰り返される日々だった。
しかし、怪しい思想に染まった資産家に目をつけたのは流石と言うべきか、今の世相を見ているとそう思わざるを得ない。
この時代、ふざけた思想に傾倒しているのは、尚政だけではなかった。
明治六十六年の震災以来、世間ではカタストロフなる思想が大っぴらに出回るようになった。
世間では世界滅亡の予言だとか、新世界の構築だとかがうたわれるようになり、しまいにはその辺の山を指して「この山はかつて存在した高度な古代文明の遺構である」なんていうふざけた内容の出版物が並ぶ始末だ。
いい歳した大人が揃いも揃って新世界のなんちゃらかんちゃらと言論を交し、女学校でも何月何日に世界が滅びるんだって、なんて会話が笑いながら当たり前のようにされている。
どことなく日常の中に悲観的な何かが当然のように並んでいて、誰しもがそれを完全に否定することができないままでいる。
世も末。その一言に尽きる。
だが、千里は立ち止まってはいられなかった。
カタストロフなるものが全てを破壊し千里を救ってくれる、なんて未来はありはしないことを千里は知っているからだ。
「……絶対に、姉さんは私が助けてみせるから」
ぎゅっと雑巾を握りしめてぽつりと呟いた一言は、千里の決意が滲んでいた。
朝霧家には、予知能力を持った人間が生まれるという言い伝えがあった。
古くは平安の時代から、そうした能力によって朝霧家は富を成し、時の権力者にも重宝されてきたとか。
しかし長い時が経ち、今ではただの昔話として扱われ、誰も予知能力など信じてはいなかった。
だがある日のこと、母と口論になり蔵に閉じ込められた時のことだ。
反省などする訳もなく暇を持て余し、蔵の中を漁っていれば古い書物を見つけた。
好奇心から覗いてみようとすれば、触れた瞬間、千里の脳内に突然ある光景が流れ出したのだ。
数年後の世界で、千里はとある御曹司に見初められて結婚し、幸せな生活を送ることになる。
だがその一方で、有紗は朝霧家を母に乗っ取られ、不幸な人生を送る、という光景だった。
人は死ぬ時、走馬灯なるものを見ると言うが、千里が見たものは走馬灯と似たようなものだった。
たくさんの日々が頭の中を駆け巡り、これから先の未来が千里の頭にありありと刻みつけられる感覚。
たった一瞬の出来事だったが、夢ではなかった。
その証拠に、書物の中に千里が見た未来が記載されていたからだ。
まるで日記のように、何年の何月何日に、どこで誰と出会い、何が起こるのかが記されている。
日時は全て未来のもので、千里は十八歳になっていた。今より二年先の未来ということになる。
当然だが千里に朝霧家の血は流れていない。
それなのになぜ未来予知に目覚めたのか、恐らく書物が原因なのではないかと千里は考えた。
この書物に何らかの仕掛けがされていて、不用意に触れたことで目覚めさせてしまったのではないか。
千里は非科学的なものは好きではない。未来予知なんて空想の中の出来事だと思っていた。
それゆえ、自分の身に起こった出来事がなんなのかさっぱり理解はできず、こじつけのようにどうにか自分自身を納得させるしかなかった。
ただ一つ確かなことは、もしこの未来の通りになってしまえば、千里は有紗を不幸に陥れるということだ。
千里は有紗が好きだ。姉として尊敬している。
普通なら千里を憎み毛嫌いするであろう立場なのに、有紗は千里を妹として受け入れ、面倒を見てくれた。
勉強も縫い物も教えてくれたのも、風呂上がりに優しく髪を梳かしてくれたのも、いつも有紗だった。
朝霧家で暮らしてから六年、有紗は常に千里を慈しみ、妹として可愛がってくれた。
だが千里は、そんな有紗に対して恩を返すどころか母の暴走を止めることもできず、有紗の立場は日に日に悪くなるばかり。
自分が幸せになって有紗が不幸になるなんて未来、絶対に認めない。
そして千里はこう考えたのだ。
自分と有紗の立場が入れ替わるようにすれば良いのだと。
その為にまず、千里が未来で出会う御曹司は、有紗と出会い有紗を見初めて貰わねばならない。
朝霧家から一刻も早く連れ出して守らなければと思わせるような背景も必須だろう。
であれば、することは一つだ。
千里は、姉をいじめるわがままで悪どい義妹を演じることにした。
母が最愛の夫を亡くした可哀想な女性を演じているように、誰からも憎まれ、疎まれるような存在を演じればいい。
そうすれば、世間は心優しい有紗に同情し、彼女を助けようと思ってくれるだろう。
その日から千里は、自分なりに有紗をいじめることをはじめた。
元々気が強く、愛想のない性格であったことから周囲も違和感を抱かず、八つ当たりされたくないと避けられるようになった。
せかせかと工作しているうちに、女学校ではわがままで意地悪な義妹というイメージはすぐに広まり、同時に有紗に対する同情も増えた。
だが肝心の有紗は、千里の意地悪を全く意に介さなかった。
いや、それどころか自分がいじめられているとも思っていない様子だった。
千里がどれだけ怒っても、有紗はいつも通り優しく接し、千里がどれだけ罵っても、全く違う意味で受け取る。
そのうちに必死になっている自分が馬鹿らしくなるぐらいに、有紗は平然としていた。



