朝霧家のわがままな義妹

「初めて見たけれど、不思議な感覚ね」


 数十年前に活動写真が大流行してずいぶん経つが、千里が鑑賞したのは今日が初めてのことだった。


 モノクロの画面の向こうで人々が動き、物語が次々と展開されていく。


 映画の内容は、不慮の事故で妻を失った詩人の男が悲しみに暮れ、紆余曲折を経て黄泉の国を訪れ妻と再会するも、最後は儚い夢に終わるという不思議な物語だった。


 画面の中で瀟洒な格好の美男美女たちが、武闘や恋物語を展開させていく。
 気づけば本来の目的も忘れて、千里は椅子に座ってじっと物語に集中していた。


 映画が終わり、人々は次々と席を立って館内を出ていく。


 ぽつりとこぼした千里の呟きを、九朗はしっかり聞いていた。


「面白かった?」
「ええ」
「おや」


 いつもツンツンしている千里が、素直に頷くとは思わなかったのだろう。

 九朗はふふ、と柔らかく笑う。


「楽しんでもらえたようで良かったよ」
「ねえ、このお話は脚本家の方が一から作ったものなの? 特に、最後の死者を追いかけてしまう場面……」


 千里の疑問に九朗が解説してくれる。

 
「これは、ギリシア神話を元にしているんだ。原典はオルフェウスの冥府下りの話だよ。日本神話にも似たような話があるだろう?」
「ええと、イザナギとイザナミの話だったかしら? 最後は喧嘩になって離婚するのよね?」
「そうそう。亡くなった妻を取り戻すため、冥界まで追いかけてしまうけれど結局は上手くいかないっていう。映画だと男は詩人で、なおかつ最後に自決しているからオルフェウスだと言えるだろうね。世界各地の神話には、比較してみると類似性が見えるんだ」
「なるほどね……」


 古代ギリシアの神話については初めて知った。


 妻を失った吟遊詩人が一心に貫いた愛と、その果てに迎えた悲しい結末。


 千里の頭には別の人物のことが思い浮かんでいた。


「亡くなった妻を取り戻す……」


 どうりでどこかで聞いたことがある話だと思ったわけだ。
 有紗はこの映画を見てどう思っただろうか。


(ちょっと失敗だったかもしれないわね……。これじゃ、尚政さんのことばかり思い浮かぶわ)


 義父は亡くなった妻に執着し、再び会うために怪しい団体に献金し、正体不明な科学実験の話に夢中になっている。


 尚政は今まさに彼の世界の冥府を下っている最中なのだろうと千里は思った。


 映画の中でオルフェウスは、最後に振り向いてしまったがために、妻へ真に永遠の別れを告げることになってしまった。


 尚政は冥府の果てで妻と再会し、その先、どんな道を歩いていくつもりなのだろうか。
 義父の考えていることはよく分からない。千里に分かることは、尚政は有紗のことを眼中に入れておらず、空想の果てにある妻との世界に浸っているということだけだ。


 
「ギリシア神話に興味が湧いた?」
「ちょっとは。まあ、私たちは外国文学を語り合う仲間らしいから、ちょうどいいんじゃないかしら」
「ふふ、今度色々教えてあげるよ。異郷倶楽部より外国文学同好会の方がずっと聞こえが良い」
「ま、確かにそうね……」


 そう答えつつ、千里は内心、朝霧家の現状について想いを馳せる。


 失ったものにいつまでも執着しているのは、母である喜久子も同じかもしれない。


 自分を捨てた非道な男の影を追いかけて、次々と男を手玉に取っては金をむしり取る。


 そんなことをしても過去は変わらないのに、喜久子は未だ例の男への憎しみを抱いて生きている。


 執着心の果てにたどり着く場所は、一体どんなものなのだろうか。


 映画の最後、主人公が自決する場面を思い出す。


 涙を流す観客もいたが、千里はそんなことばかりぼんやりと考えていた。


 他の観客の波に紛れて、シアターを出てロビーへと戻る。
 

「それにしても、九朗さんってずいぶん博識なのね」
「気づいた? これでも学生だからね。外国語の勉強がてら、色々読んでるんだ」
「そうだったの」
「これでも、京矢の勤め先の写真館で日雇いの通訳とか、キャプションの書き起こしもやってるんだ」


 京矢の勤め先が写真館というのは初めて聞いた。それに、九朗がそこで手伝いをしていることも。
 千里の中で九朗は飄々としている印象が強く、学生らしい真面目な一面はあまり見たことがなかった。

 
「さすが帝大生ね。凄いわ」
「ね、でしょ? だからさ、辞書が欲しいなら早瀬さんって人じゃなくて僕に借りに来てよ」
「へっ!? だっ、だから早瀬さんは関係ないって……!」


 まさかこの流れで早瀬亨について言及されるとは思っておらず、千里は大声で反応してしまう。
 憧れの人なんて恥ずかしくて言えるわけもないのに、九朗は次々と攻めてくる。


「ねえ、教えてよ。早瀬さんって誰? もしかして男の人?」
「そんなの九朗さんにはどうでもいいでしょ!」
「どうでも良くないさ! ねぇ、気になるんだ。どうか教えてくれないかい?」
「だっ、だから……!」


 必要以上に騒いだせいで、周囲からなんだなんだと視線を集めてしまっている。


 痴話喧嘩だ、なんて笑われているのに気づいて、千里は無理やり話を終わらせることにした。

 
「そっ、それより、姉さんたちを追わなきゃ! もうどこにもいないじゃない!」


 これだけ騒げばすぐ有紗が飛んできそうだが、二人の姿はどこにもない。
 だが、九朗は焦ることなく自信ありげににやりと笑う。
 

「ああ、それなら大丈夫。二人がどこへ行ったかは知ってるから」
「そうなの?」
「僕についてきて。さ、今日はプディングを奢ってあげよう」
「……?」


 騎士の真似事のように恭しく差し出された手を、千里は渋々取ることにした。






 場所を移し、大通りの喫茶店にて。


 店名には『純喫茶ラヰアー』と書かれ、ステンドグラスの色鮮やかな飾りが目を引く外観の店だ。


 九朗と京矢の行きつけの店らしいが、今、千里と九朗は隅の二人席で静かに耳をそばだてていた。


「二人がどこで知り合ったか? いや、私も、その……よく知らず……九朗は倶楽部でと言っていたのですが」
「倶楽部?」
「あ、ああ、そのええと、なんと言いますか……同好会のような、真っ当な意見交流の場です。ええと、九朗の好きな、あの、外国文学とやらの」
「まあ、そうなんですか。学術的で素晴らしいですね」
「は、はい……」


 向かい合って座る有紗と京矢だが、京矢はまるで視線が合っていないどころか喋りすら覚束無くなっている。


「ちょっとちょっと、あの人大丈夫なの?」
「うーん、ダメかも」