俺しか知らない顔見せて

「天谷、おはよ。昨日はお疲れ」
「……おはよう」
 翌朝、天谷は俺の顔を見るなりふいっと目を逸らした。
「昨日、結構歩き疲れたみたいでさ。風呂入ったら寝落ちしちゃったよ」
「そう」
「ほんとは撮った写真編集したかったんだけどなー」
「へえ……」
 天谷は頬杖をついて廊下の方を眺めていた。何かあるのかと思ったが、ただ視線の先の女子たちが「天谷くんこっち見てる、ヤバい」と騒いでいるだけだ。
「天谷、どうかした?」
「……」
 俺の問いにはちらりと一瞥が返されただけで、無言が続く。なんか変な空気だ。
「えーと……あ、今日はモデルやる日だよな。また美術室でいい?」
「うん……いや、やっぱりいい」
「え?」
 一度頷きかけた天谷は、しかし首を軽く横に振った。
「今日からは来なくていい。写真部の方にも行かない」
「な、なんで?」
「……」
 天谷の眉は苦しげに寄せられていた。訳が分からず混乱しているうちに、ホームルームの始まりを告げるチャイムが鳴った。すぐ担任が入ってきて会話が打ち切られる。
 なんだかおかしい。そういえば、昨日の帰り際も何となくいつもと違った。
 横目で様子を窺ってみても視線は返されない。感情の読めないきれいな横顔は、黒板を見続けていた。

 それからは話しかけても相槌しか返ってこなくなった。目は合わず、顔を覗き込んでも背けられる。そのうち声をかける素振りをしたたけで席を立たれるようになってしまった。
 こんなに突然態度を変えられるとどうしていいか分からない。もう天谷に近づかない方がいいんだろうか。
 モデルをやる前に戻っただけだと自分に言い聞かせても、毎日何かが足りない感覚がしていた。
「加地、最近天谷くん見かけないけどどうした?」
「あー……なんか、忙しいみたいで」
 竹下先輩からの問いかけを適当に誤魔化すのはちょっと心が痛んだ。もっと仲良くしろと言われるかと思ったが、先輩は意外にもあっさり納得した。
「ふーん、やっぱり天才でも作品づくりに時間かけるんだな」
「……」
 天才。天谷って、天才なんだろうか。その一言だけで片づけられるとも思えない。
「確かにあいつ、すごい才能ですけど……悩んだりもしてるみたいですよ」
「へー、そうなん?」
「たまにイラッとすることも言うし、ちょっと変わってるところもあります。でもあいつが絵に打ち込んでるのを見ると、応援したくなるっていうか……俺には何ができるんだろうとか、色々考えちゃって……」
 知らないうちに拳をぎゅっと握っていた。握りしめた指先は白くなっている。
「考えても答えは出ないんですけどね。それでも何か力になれればいいなって思います」
「加地、今日めちゃくちゃ喋るじゃん」
「……え」
 ――加地くん、今日はよく喋るね。
 以前、天谷にも同じことを言われた。あの時、なんて返したっけ……。
「とりあえず、加地のできることはモデル役だろ。あと少しじゃなかった?」
「……そうですね」
 モデルを頼まれてからもう三週間近く経っていた。モデルなんて座りっぱなしで疲れるし、肩も腰もバキバキに凝るし、じろじろ見られて落ち着かない。だから早く終わってほしいと思っていた。思っていた……はずだけど、今は本当にこのまま終わってしまっていいのかと自分に問いかけ続けている。
「新規部員の獲得、ちょっと難しいかもしれないです。すみません」
「しゃーない、俺らは地道に活動していこうぜ。まだまだ機会はあるしさ。そういや、校外撮影の写真できた? 見せてよ」
「あ、はい。スマホに保存してますよ」
 フォトアプリを開いて手渡すと、竹下先輩は画面をスワイプしながら「いいなぁ」と羨ましげな声を漏らした。
「俺も行きたかった……」
「カメラの修理終わったらリベンジしましょうよ」
「天谷くんに写真部をアピールするチャンスだったのになぁ……お、これいいじゃん。よく撮れてる」
 竹下先輩の指が止まる。画面を覗いた瞬間、胸がどくんと大きく鳴った。
「加地って人の写真が一番上手いよな。ま、俺の方が上手く撮れるけど」
 どくんどくんと響く心音を聞きながら、返されたスマホを受け取る。でもホーム画面に戻せない。
 どうしてこれを撮ったんだっけ。花を撮りに行ったはずだったのに。
 確か、不意に目が留まって。気づいたらシャッターを切っていて……。
「……竹下先輩。先に帰ります」
「え、急にどうした?」
「すみません……!」
 挨拶もそこそこに、俺は写真部の部室を飛び出した。昇降口を通り過ぎ、渡り廊下を抜け、特別教室棟の階段を駆け上がる。
 二階の一番奥、美術室の扉をがらりと開けると、中にいた男の視線が俺に向いた。
「天谷!」
「加地くん……?」
 美術室内は一人きり、天谷が真っ白なキャンバスの前に座っていた。
 肩で息をしながら一歩足を踏み入れる。驚きで見開かれた天谷の目はすぐ伏せられた。
「どうしたの? もうモデルはやらなくていいよ」
「天谷、これ見て」
 手に持ったままだったスマホを天谷に向ける。ガラス玉みたいな瞳がゆっくりと動く。
「これ、この前の?」
「うん……勝手に撮ってた、ごめん」
 ネモフィラが咲く公園で撮った、たくさんの花の写真。その中で一枚だけ、人物がメインに写っていた。それはベンチに座ってスケッチブックに向き合う天谷の姿だった。風にそよぐ髪と伏し目がちな睫毛、眉間に少し皺が寄った表情、鉛筆を持つ長い指――その全てが木陰から差す光に包まれて、眩しく輝いていた。
「絵描いてる時の天谷って、結構難しい顔してるんだよ。知ってた?」
「……知らなかった」
「だよな、自分の顔は見えないもんな」
 天谷は呆気にとられたようにスマホを見つめ続けている。これも初めて見る表情だ。
「この時、無意識に天谷を撮ってた。自分でも理由は分かってなかったけど」
 天谷の視線が、俺と写真との間をゆっくり行き来する。手のひらにじわりと汗が滲む。
「俺、写真撮るのが好きだよ。人を撮るのも。でも『この人を撮りたい』って思ったのは、たぶん天谷が初めてだ」
 口にした瞬間、自分の言葉に自分で驚いた。
 そうか。俺は、天谷を撮りたかったんだ。
 いつも絵に対して真剣で、真剣すぎるあまりちょっと失礼で、でもどこか純粋で……そんな姿を残しておきたかった。
「だから……だからさ」
 喉の奥が苦しい。走ったのとは違う脈の速さが、俺を急き立てる。
「俺のせいで絵が描けなくなったんだって思ったら、結構キツかった」
 天谷の眉がほんの僅かにぴくりと揺れた。
 無自覚に失礼な天谷に、最初はうんざりしていた。でもいつの間にか、ただ隣にいないだけでこんなに喪失感を抱くようになっていた。
「俺、どこが悪かった? 知らないうちに何かしちゃってたなら謝りたい」
 震えそうになる声を辛うじて絞り出す。天谷は弾かれたように顔を上げ、突然立ち上がった。
「違う! 加地くんは悪くないよ」
「じゃあ、なんで……」
「……」
 天谷は一度唇を引き結び、静かに腰を下ろした。耳が痛くなるほどの静寂の後、小さな声が聞こえる。
「加地くんが分からなくなったんだ」
「俺が?」
「普通の顔だと思えば、カメラを持つと表情が変わる。笑うとまた印象が変わる。加地くんを見てると落ち着かなくて、手も動かなくなって……」
 手元に向いていた天谷の視線が、ようやく俺を捉えた。
「加地くん、この後時間ある?」
「あるけど……」
「もう一回、加地くんを描きたいんだ。それで……描き終わったら、俺の気持ちを聞いてほしい」
 天谷はまっすぐ俺を見つめた。ずっと俺を対象物として映していた瞳は、今初めて、俺自身を見ている。そして俺は、透き通った双眸の奥に灯る熱に気づいた。
「……うん、分かった。最後まで付き合うよ」
 驚きよりも納得の方が大きかった。
 天谷が俺を避けていた理由も、天谷が何を伝えたいのかも、何となく分かってしまった。でもそれは嫌じゃなくて、むしろ胸がむず痒くなった。

 そこからの天谷の集中力は目覚ましいものだった。会話はほとんどなく、鉛筆の音だけが美術室に響く。夕焼けが差して、日が落ちて、外がすっかり暗くなっても、天谷の手は止まらなかった。
 そして――。
「……できた」
 天谷は細く長く息を吐き、鉛筆を置いた。それを合図に俺も強張っていた身体から力を抜く。
「加地くん、大丈夫? 疲れてない?」
「大丈夫だよ。つーか今、初めて労ってくれたな」
「そうだっけ……そうかも」
 本当に俺、最初は人間扱いされてなかったんだな。天谷らしいといえばらしいか。
「絵、見てもいい?」
「どうぞ」
 キャンバスの反対側に回り込む。真っ白な紙の真ん中に、俺の顔が正面から描かれていた。僅かに微笑んだ目元、眠そうな一重まぶた、高くも低くもない鼻――全部細かく描き込まれている。
 ……こんなに俺を見てくれてたんだ。
「俺、笑ってた?」
「少しだけ」
「そうかなぁ……無意識だったな」
 両頬を手で引っ張ってみると、天谷は小さく吹き出した。
「なにその変な顔」
「わ、笑うなよ」
「だって、よく伸びてたから」
 天谷が声を上げて笑うのは初めてだった。その顔を見ているうちに俺も笑いが込み上げてくる。
 馬鹿みたいに二人で笑って、ようやく治まると、天谷はすっと立ち上がった。
「加地くん」
「……うん」
「俺、加地くんが好き」
 覚悟していたつもりだったけれど、その言葉が耳に届いた瞬間、胸をぎゅっと掴まれた感覚がした。
「笑った顔も、怒った顔も、真剣な顔も、全部好き。もっと近くで、色んな表情を見てみたい」
 とっくに夕陽は沈んだのに、天谷の頬は赤く染まっていた。釣られて俺の頬も熱くなる。
 俺は一度目を伏せ、心を決めると再び目を開けた。
「俺さ、恋愛とかよく分かんなかったんだ。誰とも付き合ったことないし、俺には縁がないと思ってた」
 天谷の瞳が一瞬、不安げに揺れる。大丈夫だよ、という思いを込めて、その両手を握る。
「でも、俺も天谷をもっと撮りたい。まだ見たことない顔もたくさん撮って、天谷を知りたいよ」
「加地くん……」
「だから、俺もたぶん……天谷が、好きなんだと思う」
「……本当に?」
 繋いだ手に力が込められる。その手のひらは、瞳と同じくらい熱かった。
「うん、本当」
「本当に本当?」
「しつこいな」
「ちょっと信じられなくて」
「失礼だな……」
 そう言いつつも天谷は手を離そうとしない。そういえばこいつ、最近人間界に生まれたロボットみたいな奴だったな。
 俺は軽くため息をつき、笑顔を返した。
「好きな人のこと、ちゃんと信じろよ」
 そう言ってやれば、天谷は瞳に張った膜を揺らめかせながら、真っ赤になって頷いた。