俺しか知らない顔見せて

 その後もしばらく、俺が美術室へ行ったり、天谷が写真部の撮影についてきたりする日が続いた。他の美術部員にも「天谷くんのモデル役」と認識され始めていた。できれば「写真部の加地」として覚えられたかった。
 今日は中庭で園芸部の花壇を撮らせてもらっている。無心で花のマクロ撮影に挑戦していたら、すぐ隣で深いため息が聞こえた。
「……違う」
「え、また?」
「なんか、違う」
 天谷はもう一度悩ましげにため息をついた。
 天谷のデッサンは描きかけだった。輪郭はあるが顔はのっぺらぼう状態だ。本来顔のパーツがあるはずの場所には迷ったような線が数本引かれていた。
「最近調子悪い?」
「体調はいいよ」
「でも、この前も途中で辞めただろ」
 そう、天谷はここ数日様子が違っていた。俺をじっと見つめるようになったことだけじゃない。俺の顔を描いても「なんか違う」と言って納得しない。しかしどこがどう違うのかは自分でも分からないようだ。
「気分転換してみれば?」
 俺の後ろから竹下先輩が会話に混ざってきた。
「たまには違うもの描くとか、場所変えるとか」
「場所……そうだ、天谷も一緒に校外撮影行く?」
「校外撮影?」
「次の日曜日、隣町の公園行くんだよ。今ネモフィラが見頃だから」
 年に数回の校外撮影は、写真部の活動の中でも特に楽しみにしている。写真映えするスポットを選んでいるから、天谷にとっても刺激になるかもしれない。
 天谷は優美な所作で顎に手を当て、やがてこくりと頷いた。
「行ってみたい」
「じゃあ決まりな。あとで集合場所とか送るよ」
 まさか休みの日まで天谷に会うとはな。出先でもじっと見られるのはあまり嬉しくないけど、竹下先輩もいるし大丈夫だろう。



 しかし日曜日の午前十時、公園に来ていたのは俺と天谷だけだった。
 竹下先輩からは、カメラのトラブルで来られなくなったと連絡があった。液晶の調子が悪くて自力でどうにかしようとしたら完全に動かなくなってしまったらしい。半泣きの声で「写真部の未来はお前に任せた」と伝えてくれた先輩の遺志を継がなくては。生きてるけど。
「よく晴れてる。スケッチ日和だね」
 天谷は画板とスケッチブックを持ってきていた。ただ立っているだけなのに周囲の注目を集めている。さながら芸能人だ。
「天谷、ここ来るの初めてなんだろ。案内するよ」
 大きな公園内は、子ども向けの遊具、広い芝生、貸しボートのある池などいくつかのエリアに分かれている。中央の小高い丘を登り、視界が開けたところで俺たちは足を止めた。
「わ、すごい……!」
 目の前には一面のネモフィラの花畑が広がっていた。小さな青い花が風に揺れ、空との境目を曖昧にする。
「俺、写真撮ってくる。天谷も描く?」
「うん、そうしようかな」
 天谷は近くのベンチに腰を下ろした。俺もカメラの準備をして、なるべく人がいない通路の端にしゃがみ込む。
 一輪だけをアップにしたり、風景全体を広角で撮ったりと、試行錯誤するのは難しいけれどやりがいがある。一頻り撮影してから振り返ってみると、ベンチに座る天谷の目はスケッチブックを睨むように凝視していた。
「調子どう?」
「ああ……うん」
 画用紙の中のネモフィラ畑は鉛筆描きで、花の重なりや光の差し方が緻密に表現されていた。まだ途中なのに目を引かれる出来映えだ。
 しかし、画用紙の右下には不自然な空白があった。通路の端、先ほどまで俺がしゃがんでいた場所だ。
 天谷は俺だけ描けない。その事実を思い知らされたようだった。
「また駄目だった」
 天谷の表情は険しい。悔しそうに唇を噛み、片手で髪をぐしゃぐしゃと乱した。これじゃ気分転換どころか逆効果だ。
「天谷、休憩しない?」
「でも描きかけだよ」
「俺、小腹空いちゃってさ。息抜きしようよ」
 俺に絵のアドバイスはできないけれど、根を詰めすぎるのが良くないことは分かる。せっかく来たんだから、天谷も楽しめた方がいいよな。
 近くにあった売店に立ち寄ると、天谷はメニュー表を怪訝そうに眺めた。
「ネモフィラのソフトクリーム……? おいしいの?」
「有名なんだよ。食べてみる?」
 水色の小ぶりなソフトクリームを二つ購入し、片方を手渡す。天谷は警戒しながら一口舐めると、僅かに目を見開いた。
「あれ、意外とおいしい」
「だろ? ラムネ風味なんだよ」
 爽やかで口溶けの良いソフトクリームが、撮影で疲れた身体に染み渡る。溶けてしまわないよう食べ進めていると、天谷は俺の口元に視線を止めた。
「加地くん、ついてる」
「え?」
「ここ」
 天谷の手が伸びてきて、俺の口の端を指でそっと拭う。そして天谷は何の躊躇もなくその指先を舌で舐め取った。
「な、なな、何してんだよ!」
「何って、何が?」
「普通舐めないだろ、ティッシュで拭け!」
 びっくりしたのか、心拍数がどっと増えた。
 しかし狼狽える俺とは対照的に、天谷はなぜか不思議そうな顔をしていた。
「……どんな味なのか、気になって……?」
「はあ……? ラムネ風味って言っただろ」
 天谷も同じものを食べてるのに、何言ってるんだ。
 それにしても、天谷ってたまに距離感バグるよな。ただでさえモテるんだから、誰にでもこんなことをしていたら妙な勘違いをされかねない。
「今みたいなやつ、他の人には……特に女子には絶対やるなよ」
「なんで? ていうか天谷くんにしかやらないよ」
「え……!? なんで!?」
 思わず俺が聞き返してしまった。天谷は表情を変えずに答える。
「俺、あんまり友達いないんだよね。だから誰かと出かけたりもしないよ」
「あ……そ、そういう意味か」
 てっきり違う意味かと思って焦った。いや、違う意味って何だよ。俺、混乱してんのかな。
 言われてみれば、天谷はみんなの中心人物というよりは雲の上の存在って感じだ。天谷自身もちょっと、というかだいぶコミュニケーションに難があるし。
「少なくとも、俺は天谷のこと友達だと思ってるよ」
「……そう」
 一瞬だけ細められた目は、すぐ逸らされた。景色を眺めているのかと思ったが、もっと遠くの何かを見つめているようにも見えた。
 会話が途切れ、静けさが辺りを包む。近くを通った子どもたちの笑い声が響いた時、天谷は一度瞬きをした。長い睫毛が頬に影を落とす様は、思わず息を呑むほどの美しさを持っていた。
 ……本当に、俺よりよっぽどモデル向きじゃないか。存在自体がひとつの作品になりそうだ。
「そうだ、天谷も写真撮ってみたら? 絵の資料にもなるんじゃないかな」
「えー……写真はあんまり……」
「あーもー、わがまま王子かよ! とりあえず撮ってみなってば!」
 天谷は躊躇いながらも頷き、背負っていたリュックからスマホを取り出した。そして花畑に向け、何度かシャッター音を鳴らす。
「……撮れたけど」
 不満げな声とともに差し出されたスマホの画面を見てみる。しかしそこには、春の爽やかな景色は写っていなかった。
 一枚目は太陽の光で白飛びしている。二枚目は逆に暗い。三枚目は半分ほどが指で隠れている。そしてどの写真もものすごくブレていた。
「えーと……」
 どうしよう、コメントに困る。ぶっちゃけ想像以上に下手だった。でもストレートに言うのはさすがに気が引ける。
「何ていうか……前衛的だな」
「はあ……別にいいよ、下手って言っても」
 天谷は投げやりにため息をついた。下手な自覚はあったのか。
「つーかなんで全部ブレてんの?」
「動いたからだよ」
「花は動かないだろ」
「風で揺れてた」
 淡々と返され、つい笑いを堪えきれなかった。
「ははっ……なにそれ、どんだけ強風だよ。天谷、面白すぎるだろ!」
 笑ったら申し訳ないと思いつつも、ぽかんとした顔をされたらますます可笑しい。久しぶりに腹の底から笑ってしまった。
 すると突然、天谷の手からスケッチブックがばさりと落ちた。
「うわ、どうした!? 汚れるぞ」
「……加地くんって」
「え?」
「そんなふうに、笑うんだ」
 スケッチブックを拾い上げた天谷の声が、春風に乗って流れていく。艶のある髪が靡く様子に、俺はなぜだか目を奪われた。
 お互い無言のまましばらく見つめ合い、ふと我に返って照れくさくなる。なんなんだよ、今の雰囲気は。俺まで調子が狂いそうだ。
「と、とりあえず、もうちょっと脇締めて撮ってみなよ。それだけでも安定すると思う」
「こう?」
「そう、あと持ち方変えれば指写らなくなるから」
 天谷は慣れない手つきでもう一度スマホを花に向けた。
 撮れた写真は少しピントがずれていたけれど、先ほどよりだいぶきれいになった。
「ほら、全然違うだろ」
「……確かに」
「天谷、構図の取り方上手いな。やっぱり絵描いてるからかな」
 天谷はスマホの画面を眺めてから、俺をちらりと見た。
「加地くん、なんで写真好きになったの?」
「え……そんな大したきっかけじゃないよ」
「知りたい。教えて」
「うーん……」
 本当に大したことないんだけどな。でもまあ、隠すほどでもないか。
「中学の時、母の日に花の写真あげたんだよ。花屋に行くのはハードル高くてさ。そしたら、スマホの壁紙にするとか言って、すげー喜んでくれて」
 近所の公園の花壇をスマホで撮っただけの、ありきたりな写真だった。でもあの時の母の笑顔は今も覚えている。
「それで、写真っていいなって思ったんだよな」
 俺にはたぶん、才能はない。将来写真家になったり、賞を取ったりする可能性もないだろう。ただ俺にとっては大切な生きがいで、これからも続けていきたいと思っている。
「改めて話すと、なんか恥ずかしいな。マザコンかよって」
 照れ隠しで茶化した俺に、天谷は「そうなんだ」とだけ言った。
「……笑わねーの?」
「笑わないよ。いいと思う」
「そ、そっか」
 あれ、なんか余計に恥ずかしい。ていうかちょっと嬉しい……かも。まるで自分を認めてもらえたみたいだ。
「えっと……俺、向こうの方も撮りにいってくる。それじゃ!」
 そわそわと落ち着かなくて、俺は逃げるようにその場から離れた。なんだか顔が火照っていた。



 帰りのバスは空いていたのに、天谷は俺の隣には座らずにずっと立っていた。
 天谷の視線は車窓の外に向けられていた。景色を見ているのか、ただぼんやりしているだけなのか判断がつかない。
「今日はいっぱい撮れて良かったよ。竹下先輩も来れればもっと良かったけど」
「……」
「天谷?」
「ああ……ごめん、聞いてなかった」
 数秒遅れて俺を向いた目は、しかしすぐ窓に戻る。
「疲れてるなら座ったら?」
「大丈夫」
「ならいいけど……」
 結局、天谷のスケッチブックの空白は埋まらなかった。俺が上手くモデルになれていないせい? それとも他の原因があるんだろうか。
「あのさ、今度は俺以外の人を描いてみるのはどう?」
 なんとか捻り出した案を口にしてみたが、天谷は「嫌だ」と即断した。
「そんなの描きたくないよ」
「でも、俺がいない方が……」
「違うから。加地くんを描けなきゃ意味ない」
 どうしてそんなに俺に拘るんだろう。でも天谷の横顔はそれ以上の問いかけを拒絶しているように見えて、何も言えなかった。

 バスが最寄り駅に着き、二人揃って降車した。ここからの帰り道は別々だ。
「じゃ、また明日学校で」
「加地くん」
「ん?」
「ごめん、さっきちょっとピリピリしてた」
 素直に頭を下げられて驚いてしまった。天谷も人に謝れたのか……って、こんなふうに思う俺も失礼かもだけど。
「いいよ、気にしてないから」
「……」
 天谷は浮かない顔で俯いたままだ。彼の悩みに、俺は何ができるんだろう。今日は天谷のことばかり考えていた気がする。
「疲れてるのかもしれないし、帰ったらゆっくり休みなよ」
「加地くん、あの……」
 元気づけようと明るい声を出せば、天谷は何か言いかけて、言葉に詰まった。そしてまた足元に視線を落とす。
「俺、たぶん……」
「うん?」
「……やっぱり何でもない」
「なんだよ、気になるだろ」
「何でもないよ」
 何度聞いても答えてくれず、天谷は俺に背を向けた。
「じゃあ、帰るから。今日はありがとう」
「……うん」
 改札に入った姿が人混みに紛れるまで、俺はそこから動けなかった。遠くなる背中はなぜか寂しそうだった。

 そしてその日から、天谷は俺を見なくなった。