ファイブナイン│君に届くまでの最大出力

 クラスの全員から、僕は関わっちゃいけないヤツだと思われている。

 休み時間はいつも机に突っ伏して誰とも目を合わせず、授業開始のチャイムが鳴るのをひたすら待つ。教室を包む、わちゃわちゃした空気が僕にはしんどかった。

 放課後、僕は扉を押し開けて屋上で大きく息を吐く。空は快晴。雲一つない青空から太陽の光が降り注いでいる。辺りに誰もいないのを慎重に確認して、僕は慣れた手つきでビニール傘をさした。

 手元には、鮮やかな水色のビニール電線。傘にグルグル巻きつけて傘全体をアンテナがわりにする。  

「よし……」

 クリスタルイヤホンを耳に押しこむ。砂嵐の向こうから、かすかにラジオ局の音声が聴こえてきた。ここは誰も知らない、僕だけの秘密基地。

 ――バタンッ!!

 突然、激しい音を立てて屋上の扉が開いた。​思わずビクッと肩が震える。振り返ると、一番会いたくないタイプの人間がいた。

 放送部員の成瀬 響。髪を少し遊ばせた、いわゆる陽キャ。制服の着崩し方が妙にこなれてて、明らかに校則違反なのに先生に目をつけられない。いつもクラスの中心にいて、僕とは対極の存在だ。

 成瀬は僕の姿を見るなり、あからさまに動きを止めた。

 最悪だ、変なところを見られた。
 慌てて傘を閉じようとしたけれど、成瀬の視線は僕の手元に釘づけになっている。

 雨も降ってないのにビニール傘。しかも、電線やらアルミホイルやら選局用につけ足した基板やら色々ついたやつ。日傘と言い訳するには苦しすぎた。

 ​前にこれを見られたときは、謎の電波を受信してるヤバい奴扱いされ、あからさまに遠巻きにされるようになった。

「久住だっけ。え、何それ。何してんの?」

 足音が近づいてくる。喉の奥がカラカラに乾いていく。それでも、自分の好きなものには嘘をつきたくなかった。

「……傘ラジオ。今日、電波のコンディションいいから」

 引かれるか、笑われるか。
 前髪の隙間から様子を伺う。

「え、待って。こんなんで本当にラジオなんて聞こえるの?」
 
 成瀬の声は教室で聞くよりずっと、耳に心地いい声だった。言葉がくだけているのに、不思議と聞き疲れしない。さすが放送部、なんて場違いな感想が頭をよぎる。

 僕は自分の耳からクリスタルイヤホンを取り出した。シャカシャカ……と、かすかな音が外に漏れる。

「聞いてみる?」

「聞きたい、聞かせて!」

 イヤホンを差し出すと、成瀬は目をきらきらと輝かせて、さらに一歩踏み込んできた。

「動くと外れるから、じっとしてて」

「おう」

 陽キャ特有の距離感のなさに戸惑いながらも、僕はそっと手を伸ばし、成瀬の耳たぶに触れた。髪をかき分けると、ほんのりシトラスのいい匂いがして気後れする。

 それ以上に、自作のラジオを他人に見られる緊張感が勝っていた。指先でイヤホンを成瀬の耳の穴へ、そっと押しこむ。自然と、息が触れ合いそうなほど顔と顔が近くなる。

「……聴こえる?」

 覗き込むと、成瀬の目が驚きで丸くなっていた。僕がさっきまで聞いていた、地元のおじさんのゆるすぎるトークや、ローカルニュースが流れているはずだ。

「何これ……どういうこと? すごいエモい音するんだけど!」

 ニッチな工作を「エモい」の一言で全肯定される。柄にもなく胸が躍り、耳の裏が熱くなった。

「ビニール傘全体をアンテナ替わりにしてるんだ……この部品はゲルマニウムダイオードっていって……」

 気づけば、僕は早口で解説していた。いつもなら絶対に他人に話さないことを。成瀬は「すごっ!」とか「マジで!?」とか、ノリのいい相槌を打ちながら、真剣に僕の言葉を聞いてくれている。

「電通部だっけ、他の部員は? みんなでこれ作ったの?」

 直球な質問に、急に現実に引き戻された。浮かれていた自分が急に恥ずかしくなって、思わず視線が下に落ちる。

「うちの部、幽霊部員が殆どだから……変ですよね。こんなこと一人でやってるの」

 どうせ奇行だと思われる。諦めてイヤホンに手を伸ばしかけた時、成瀬に肩をガシッと掴まれた。

「どこが! めちゃくちゃ格好いいじゃん!」

 屋上の青空にまっすぐ声が響いた。

「マジでセンスの塊すぎ。俺、こういうの作れる奴、本気で尊敬する」

「え……あ、うん……」



――その日を境に、僕の放課後は一変した。



 クラスで一番の陽キャと陰キャが屋上に居合わせる、謎の時間が生まれた。資材を持って屋上への階段を登ると、発声練習をしている声が、ドアのこちら側まで聴こえる。

「成瀬、早いね」

「おつ。ていうか、成瀬呼びって他人行儀すぎでしょ。響でいいよ」

「……ぇ、うん」

「はは、声ちっちゃ!タッパあるのに!」

 隣の客はよく柿食う客だ
 客が柿食や飛脚が柿食う
 
 放送なんて喋るだけだと思っていたけど、同じ一文を十回以上繰り返していた。聞いてるとこちらまでゲシュタルト崩壊を起こしそう。成……いや、響は毎日こんなことをしているらしい。

「東京特許許可局! とうきょうとっきょきょかきょきゅ?……あー、ダメだ。信、今の滑舌どうだった? 腹式呼吸意識したんだけど」

「さっきよりすごく良くなった。東京の言い方が」

「後半がスルーされてる!ダメじゃん!」

 響は僕の背中にずるずると寄りかかって、声を潰した。

「カ行、地味に苦手なんだわ。部活のやつらの前だと部長っぽく格好つけちゃうんだけどな」

 背中に体温を感じる。何でも完璧だと思ってた響は、驚くほど努力の人だった。人って声を出すたび、こんなに喉仏が上下するんだな。

「よっしゃ、もう一回」

 軽いノリで、基礎練習を何度もストイックに繰り返す響の隣で、僕は自作のアンテナを結束バンドで手すりに無理やりくくりつけていた。

「やってる?」

 正面から響に前髪をかき上げられ、視界が明るくなる。

「お客さん、いま開店準備室中」

 いや、のれんじゃないから。響の手を払って前髪を戻す。

「はは、閉め出された! 信、ちゃんと目開くと結構かっこいいじゃん」

 前髪の隙間から響を見る。目尻を下げて笑っている。額の見える髪型は、それだけで自信がある人間のものに見えた。

 駄目だ。こいつは僕と違いすぎる。
 信頼できない語り手だ。

「で、今度は何面白いことやってるの?」

「人工衛星の声を聞こうとしてる」

「すっご、家の屋上にあるアンテナみたい」

「八木アンテナ、430帯の6エレなんだ。塩ビ管に金属の棒をさしただけ」

「それ何の呪文?」

「響が前に話してた、なんちゃらフラペチーノホイップエクストラ……?よりは呪文じゃないよ。……聞いてみる?」

「聞く聞く!」

 響は待ってましたとばかりに、僕のすぐ隣に座り直した。制服の肩が、僕の肩にトン、とぶつかる。

「片方ちょうだい」

 響は僕の首にかかっていたヘッドホンに迷いなく手を伸ばすと、右側のイヤーパッドをぐいっと自分の左耳に持っていった。

 コードの長さが足りなくて、引っ張られるように、僕たちの頭はコツンと軽い音を立ててくっついた。

「ザーって言ってる」

 信じられないくらい顔が近い。長い睫毛も、形のいい唇も、すぐ目の前にある。

 アンテナから伸びるケーブルを受信機につなぐと、液晶が淡く光った。僕は受信機のダイヤルにそっと指をかけた。

「計算どおりなら、あと数分で人工衛星がここを通過するはずだから」

「了解」

 空の上を指で示すと、響は楽しそうに笑って、僕と頭をくっつけたまま、じっと受信機の液晶画面を見つめている。

 響の首筋から香るシトラスの匂いは、時間が経つと頭に靄がかかりそうな甘苦さに変わる。なんでこんなに胸がかき乱されるのだろう。

「ずっとポーポー言ってる。この音がそう?わ、救急車みたいに変な音になった。だんだん低くなってる?」

 モールス信号がポーポー。初見の感想ほど美味しいものはない。救急車は、ドップラー効果を言いたいのだろう。人工衛星が僕たちに近づいて遠ざかっていくから、周波数がズレて音が変わる。

「こんな装備で、1000kmの高さで周回してる衛星の声を聞けるってすごいよね」

「信も教室で俺に気軽に絡めばいいのに。人工衛星より、ずっと近いよ?」

 肩に腕を回され、ポンポンと気安く叩かれた。腕の重みと一緒に甘い匂いがくる。ただのコミュ強の仕草だと、自分に言い聞かせる。

「そうだ。連絡先教えてよ。俺、これね」

 HIBIKI_0807って。そのまますぎる。陽キャの鑑のような、何のひねりもないID。対して僕は、ハムの免許を取ったときに割り当てられたコールサインの後ろ3文字をそのまま使っている。

『CHU』

 響が画面を覗き込む。沈黙の後、堪えきれなくなったように吹き出した。

「ははっ、信、それ何?……もしかして、ちゅって読むの?」

 耳の端まで熱がいく。あわてて言葉を遮るように食い気味で返した。

「チャーリー、ホテル、ユニフォーム。正式な読み方だから」

「あはは、長い長い! なにその堅苦しい説明。かわいすぎでしょ」

 響は肩を震わせて笑いながら、僕の肩に頭を預けてくる。僕のスマホは手から滑り落ちた。




 その日の夜、僕はベッドの中で迷いながら、挨拶代わりに自分の好きな曲のタイトルを一言だけ送った。

 それに対する響の返信は、数分後。

『俺はこっち。明日、放送で流すわ』

 返ってきたのは、僕が全然知らない、どこか気だるげで心地よい洋楽のタイトルだった。

 放課後は、ほぼゼロ距離だったのに、だんだん遠ざかる。僕が目を閉じて朝がきたらまた遠くなる。

 教室に行けば、輪の中心で楽しそうに笑っている響。その姿を遠くから見つめることしかできない僕。

「僕は受信専用なのかもしれない。送信をどっかに置いてきちゃったみたいだ」

 小さな声で、僕は机に話しかけた。

「ん? なんか言った?」

 近くの席から、通りすがりの声が降ってくる。僕の言葉の意味なんて、最初から誰も求めていない。

 昼休みの合図とともに、リュックのなかからパンが入ったビニール袋を取り出す。本当は屋上で食べたかった。でも、階段を上ろうとしたところで、生徒たちが踊り場でたむろしているのが見えて、僕は足を踏み出せずに引き返した。

 誰も来そうにない、別棟へ続く渡り廊下の隅。窓の外のいまいちすっきりしない空を見上げながら、ようやく息を吐いたとき、頭上のスピーカーから急に音楽が鳴った。

『――時刻は12時50分を回りました。木曜のランチタイムRADIO、ナビゲーターの響がお送りしています』

 いつもより少しすました声。ラジオの発音がやたらといい。今まで、校内放送なんて気にとめたこともなかったのに。響の声が聞こえた瞬間、僕の耳は勝手に意識を傾けていた。

『……はい、というわけで、お知らせはここまで。いやー、本当に最近暑いですよね。皆さんはもう衣替えしました? 俺はまだ冬服のシャツの袖をまくって耐えてるんですけど、正直もう限界です!』

 全校生徒に向けて発信されるその声は、廊下の隅にいる僕の耳にもまっすぐに届く。

『それでは、最初のリクエスト曲。ペンネームCHUさんからのリクエストで……』

 持ってたパンを思わず落としそうになる。
何百人に向かって喋っているはずなのに、
僕にだけ届いた気がした。

 ……ちゅ、ってそのまま読まれた。

 昨日、耳もとで囁かれた吐息と笑い声がフラッシュバックして、勝手に顔が熱くなる。誰もいなくてよかった。

 暫くして、スピーカーから音楽が流れ始めた。僕が夜に送った曲だ。英語のタイトルの古いボサノバ。連れていって私を月まで、なんて我ながらどうかしていた。

 正直、音楽よりも僕の心臓の音の方がうるさくて曲を聴くどころじゃない。

『そういえば、昨日も夜にきれいに月が見えてましたもんね』

 響は、僕が送ったつぶやきを受けとめて、投げ返してくれたんだ。空の向こう側から飛んでくる、一本の電波みたいだったなんて、言ったら笑ってもらえるだろうか。

 この気持ちをどう伝えたらいいのか、何度言い換えても、うまく言葉が見つからない。




 ​五限目の予鈴が鳴って教室に戻れば、また僕の入れない世界だ。いつものように机に突っ伏す。

(いやマジでさ、校内放送の成瀬の声、無駄に良すぎて箸止まった)

(お前の声で甜麺醤のコクとか言われても、こっちの弁当のチャーハンは普通のレトルトなんだけど!)

(完全にイケボの無駄づかいすぎん?)

​「無駄づかい言うなし! レトルトも、俺の声にかかれば本場四川の味になるから」

 何も変わらないはずなのに。僕はおかしくなってしまった。周りのガヤガヤした音が全部消えて、響の声だけを全部拾おうとしてしまう。

「――それではお聞きください。『今日の隠し味は、甜麺醤』ほら、コク増した?」

 放課後までに何か返さなきゃ。何とか言葉をひねり出そうとするも、既に響が放った甜麺醤に思考が汚染され始めていた。

 前髪の隙間からそっと顔を上げると、友だちと談笑を続けている響と目が合う。響は悪戯が成功した子どもみたいにニカッと僕の方を見て笑った。慌ててまた机に深く突っ伏して、心臓のうるささをごまかすように、ぎゅっと目を閉じる。



 やっぱり僕は送信ができない。





「……今日も雨か」

 廊下の窓から外を眺める。ボソボソとしたつぶやきは、溜息と共に雨音に溶けた。

 もうすぐ中間テストが始まる。今日を逃したら、テスト期間が終わるまでの二週間近く、響と話す機会は完全になくなる。クラスの中心で笑う響と、隅っこにいる僕。教室でのわずか数メートルの距離は、僕にとっては電波の届かない圏外だから。

 吸い寄せられるように、屋上への階段を上っていく。踊り場まで声が響いていた。

「あ、え、い、う、え、お、あ、お……」

 思わず息をのむ。
 外じゃないとこんなに反響するんだ。
 僕は手すりから手を下ろした。

 今日の僕には、屋上に行く理由がない。
手ぶらだったから。響の声が聞きたかったからなんて、言えるわけがない。

 僕は踵を返した。一段、二段。胸がキリキリするのを無視して廊下を進み、別棟の電通部の部室まで戻った。机に置かれた据置きの無線機に電源を入れる。オレンジ色の液晶に433.000の数字が浮かびあがった。

「CQ、CQ、CQ。こちらは――ジュリエット、ノーベンバー、ワン、チャーリー、ホテル、ユニフォーム。430からどなたか入感ありましたら、お相手よろしくお願いします。どうぞ」

 マイクを握りしめ、さっきから周波数を少しずつ変えながら、何度もコールを試みるも、画面に表示されるシグナルは微動だにしない。僕の電波は、部室の壁を越えることすらままならない。

 スピーカーから返ってくるのは、ザーという、外の雨の音によく似た、気だるいノイズだけだった。

「今日はダメだな」

 小さくため息をついて、マイクを置いた。諦めて電源を落とすと、部室はしんとした静けさに包まれる。リュックを背負い、スマホにイヤホンを繋いで音楽をかける。耳を塞ぐようにして下駄箱へ向かった。

「……傘がない」

 どうやら、誰かに間違えて持っていかれてしまったみたいだ。部室にある予備の傘は、電線がぐるぐる巻きにされたままだった。僕の傘は、雨の日には役に立たない。

 濡れて帰るか。腹を括って一歩を踏み出そうとしたその時、すっと僕の頭上に影が差した。大きな黒い傘。シトラスの匂いがした。何度も嗅いでいるうちに、それだけで響だとわかるようになってしまった。

「やっぱり。別棟の方から足音が聞こえたからさ」

 振り向くより早く、ぐいと肩を引き寄せられた。響の腕に囲われると、自分がやけに小さく感じる。
 
「中入れよ、濡れんじゃん」

 気づけば僕は、すっぽりと傘のなかに収まっていた。理由がないと近づけない僕とは違って、響はいつだってかんたんに踏み込んでくる。

「すぐどっか行っちゃうなら、俺から捕まえにいくしかないでしょ?」

 腰に回された響の腕と一緒にいつもの匂いがくる。何か答えようと口を開きかけたけれど、喉がひっついて上手く声にならない。僕は響のことを意識した途端、さらに喋れなくなっていた。

「なに聴いてるの? 貸して」
 
 断る間もなかった。指先が僕の耳に軽く触れ、右側のワイヤレスイヤホンが、するりと奪われる。響はそれを自分の耳に押し込むと、ふっと目を細めた。

 外された右耳に、雨の音が戻ってくる。

 響は目を見開いた後、ポケットから覗いている僕のスマホの画面に、そっと視線を落とす。画面には、再生中の曲の下にプレイリストがある。

 スクロールするまでもない。僕のスマホの履歴は、響がおすすめしてくれた曲だけで埋めつくされていた。

「……あ」

 自分が響のことばかり考えている証拠を、そのまま突きつけられた。慌ててスマホを隠そうとした僕の手を、響に上から優しく包み込まれる。

「俺が送ったやつ、全部入れてくれたんだ」

「うん……」

 響の声が、さっきよりずっと甘く響いた。ろくに言葉が出ない代わりに耳の裏まで真っ赤に染まっていく。

「――あれ? 響じゃん。何してんの、こんなところで」

 聞き覚えのあるクラスの奴らの声が、雨音を割って響いた。ヒュッ、と息が止まる。
前髪の隙間から視線を動かすと、すぐそこに傘を差したクラスメイトが二人、信じられないものを見たというような顔をしていた。

​ クラスで一番の陽キャが、よりによって関わっちゃいけないヤツ扱いされている僕と、一つの傘に収まっている。しかも、あり得ないくらい至近距離で。
 
 いたたまれなくなって、とっさに一歩、後ろへ飛び退こうとしたけど、響はそれを許さなかった。響の腕が僕の腰に強引に回り、引き寄せられる。

 僕の背中から響の心臓の音が聴こえた。音が大きすぎる。いや、これは僕の心臓の音だ、多分。

「おつー、今から帰り?」

 響はいつも通りの、クラスの中心にいる時のトーンで奴らに挨拶を返した。同時に、僕の腰に回されていた腕にグッと力がこもる。
 
「信が傘忘れたから駅まで送ってくとこ」

 響は悪びれもせず、むしろ見せつけるみたいに僕を抱きすくめたまま、ニカッと笑ってみせた。
 
「あ……え、あ、そうなんだ?」

「……お、おう。じゃあ、また明日な」

 視線を泳がせ、足早に去っていく二人。奴らの姿が見えなくなっても、響は僕を抱きしめた腕を緩めてくれなかった。

「なんで逃げようとすんの。テスト前だし、しばらく会えなくなると思って、俺、ずっと屋上のドアの前で待ってたんだけど」

 雨音が気まずい沈黙を埋める中、響は僕の左手をそっと掴んだ。そのまま指の隙間に自分の指を滑り込ませ深く絡める。

「……信さ、うまく喋れないなら別に喋んなくていいよ。はいなら握る。いいえならそのまま。これならできる?」

 差し出されたルールに頷き、恐る恐る繋いだ手に力を込めてみると、響は満足そうに笑った。

「私を駅まで連れてって」

「はい、了解」

「逆方向だった?」

「あー、バレちゃったか」

 ぎゅっと握り返すたびに、響が声を弾ませる。傘をさして、手を繋いだまま僕たちは歩き出す。

「中間テストの範囲エグくない?」

「だよな! はは、力強すぎ。全肯定じゃん」

 思わず少し笑いそうになる。響は繋いだ手をぶらぶらと子どものように揺らしながら、商店街のコンビニ前で立ち止まった。ガラスに貼られたカラフルなポスターを見ている。

「お、新作出てる。桃だ、チョコミントもあるじゃん。信、まだ食べてない?」

 握り返すと、響が嬉しそうに頷く。

「よっしゃ、これで一個理由できた。テスト終わったら食いに行こ。信、理由ないと屋上来ないじゃん」

 胸がちくりと痛んだ。今日の放課後、引き返してしまったことまで、全部見透かされている気がした。

「だから俺が作っとく。会う理由たくさん作ろっか」

 今までとは違う声。いつものふざけるような調子が消えている。

「信、俺のことめっちゃ好きでしょ」

 反射だった。頭で考えるより早くその手を握りしめてしまっていた。

「あははっ、即レスすぎてウケる。まだ質問終わってないんだけど」

 肩を震わせながら響が笑う。顔全体が沸騰しそうに熱くなる。恥ずかしさで死にそうだった。慌てて離そうとした手を響は逃がさない。むしろもっと奥まで深く指を絡めてくる。

「ごめん、ごめん」

 ちっとも悪びれていない声。遠く電車の通過する音が聞こえた。

「大真面目にアンテナつくって、必死で空にかざそうとしてる信が、俺はめちゃくちゃ好きって言ってんの。俺の声もたくさん拾って」

 響の口から出た言葉を、僕は傘の中で咀嚼する。僕を好きだなんて、いくら脳をこねくり回しても理解できない。

「なんで俺……?」

「そんなの、お前が面白いからだよ」

 何か裏がある?暇つぶし?
 ただの気まぐれ?
 嬉しいくせに卑屈になる。

「探せば普通にそういう奴、他にもいるし。作り方が書いてあったからやっただけ。僕が特別面白いわけじゃないから」

 僕が作った傘ラジオもアンテナも、文献や他校の過去レポを読めば、作り方なんていくらでも載っているし、誰にでもできる。

「信さ、それ本当に言いたいことじゃないでしょ」

 絡んだ指に、ぐっと力が入る。響の声は、妙に優しかった。

「俺がそのうち飽きるとか思ってる?」

 図星。何も言えずに、胸の奥がぎゅっと縮こまる。そんな真っ直ぐな目で僕を見るな。

「今だけ面白がってるだけとか、そのうちなんか違うって思われるとか」

 響は小さく息を吐いた。雨のなかで、響の言葉だけがクリアに鼓膜に届く。

「俺、そんなに信用ない?……って、そこ握り返すとこじゃなくない!? 手ごわいなー」

 響は僕の手を少し持ち上げて、いたずらっぽく笑った。

「世界中に似たような奴が何万人いたとしてもさ、今ここで俺の傘に入って、プレイリストを俺のおすすめ曲だらけにして、顔真っ赤にしてる奴」

 心臓の音が響に聞こえてしまいそうだ。
 
「絞り込んだら即、お前ひとりになるじゃん。信が無線機のつまみ触るのと一緒でしょ?」

 周波数のことなんて知りもしないだろうに、完璧にロックオンされる。

「だから、他の奴らと比べるの禁止。答えは?」
 
 しばらく唇を強く噛んで、これ以上耐えきれなくなって、僕は観念して口を開いた。

「……ファイブナインです」

「よっしゃ。それ、めちゃくちゃいいやつでしょ」

 響が満面の笑みを浮かべた。信号強度5、了解度9。響の声は最高にクリアに完璧に届いている。でも、理解させる気なんかなかったのに何で伝わるんだ。

「じゃあ次、100目指すわ」

「これ以上行かない。限界値だし規格が違う」

 それ以上を求めようとする響に、反射的に、僕の口から滑らかなツッコミが飛び出していた。響がピタリと固まる。僕も、自分が勢いよく喋ったことに気づいて固まる。

「え」
「え」

 数秒見つめ合ったあと、響の今日一番の笑い声が弾けた。

「あははは! しゃべった!」

 もう一言も言葉が出そうにない。僕の手は一気に汗をかいた。助けてくれ。これ以上好きにさせられたら、僕のキャパが壊れる。
僕の指先はバタバタと暴れていた。

 ・・・ --- ・・・
 ・・・ --- ・・・
 ・・・ --- ・・・

「指、痙攣してんじゃん!とにかく、信が遭難しかけてるのはわかった」

​​「……な、んで」

​「放送部ナメんな。文化祭のSEで使ったことあるからそれくらい知ってるよ?」

 気がついたら、僕はバカ話ができる程度には、会話できる状態に回復していた。商店街を抜け、駅のロータリーにたどり着く。もうすぐこの時間が終わってしまう。

​ 響が黒い傘を閉じると、駅の照明が僕たちを照らした。繋がっていた手が離れて、急に寂しさを覚える。

​「傘、いれてくれてありがとう。また明日」

​ 僕が改札に向かおうとした時、後ろから制服の裾をぐいと引かれた。

​「信、教室で俺から話しかけたら、ちゃんと反応しろよ。無視したらクラスの真ん中で抱きついてやる」

​「なっ……」

​「俺、信に届くまで絶対やめないよ?」

​ 甘苦いシトラスの匂いが近づく。響は僕の額に、自分の額をコツンとぶつけた。前髪の奥から見上げた響の顔は、いつもみたいにまっすぐだった。瞳が至近距離で、まっすぐ僕を映している。

「これ俺の今日の最大出力」

 視界が響の顔で埋まった。長い睫毛の影が頬に落ちて、唇に柔らかいものがふわりと押し当てられる。シトラスとは全然違う、大人びたバームの匂い。頭の芯が痺れる。足の先からすうっと力が抜けて、そのまま後ろに崩れそうになった。

 本当に何が起きたのかわからなかった。
 駅のザワザワした音も雨の音も全部消えて、頭の中が真っ白になる。

「じゃね」

 唇が離れると、響は耳の裏をほんのり赤く染めて、いたずらっぽく笑った。ひらひらと手を振って雑踏の中へ消えていく。

​ 残された僕は自動改札の前で、唇に走る熱を引きずったまま、完全にキャパオーバーになって立ちつくすしかなかった。