ペイルブルー・レイトショー

 青柳(あおやぎ)拓海(たくみ)が最初に違和感を抱いたのは、大体三ヶ月前――スマホが顔認証しなかった時だ。映し出された三白眼の男子高校生が何度も瞬きする様を見ていたのを覚えている。
 なくなく再起動して事なきを得たが、その後も違和感は静かに積み上がっていった。ある時は自動ドアに無視され、ある時はLINEで返信できず、再送を促される。今思えば、幼馴染の美空(みそら)も変だった。最近聞いている好きなボカロ曲を聞いたはずが、「えっと……ごめん、話題なんだっけ?」と苦笑された。

 そして、とうとう――拓海は世界からも認知されなくなった。

 登校して出席は認められるが、「おはよう」と声をかけたクラスメイトは反応せず、授業でも番号を飛ばされて解答を当てられる。帰宅して「ただいま」と言っても、母の「おかえり」の声はない。父はテレビのニュースから目を離しもしない。自分の食事は用意されているので、ギリギリ存在はあるようだが――はたして、こんな生活が『生きている』と言えるのか。
 叫び出しそうな心を抱えて、拓海は自宅マンションから夜の街に飛び出した。両親は止めるどころか気づきもしなかった。未成年であれば、とっくに補導されている時間だったが、それでもいい。補導してくれるということは、つまりは自分を認知してくれる人間がいることに他ならない。
 走って走って、「なにをやっているんだろう」と不意に正気に戻って足を止めた時――〝それ〟は現れた。

「なっ――」

 ビルとビルの間を闊歩する、四足歩行のマネキン。あるいは、拓海も中学時代に漫研が使っているのを見たことがあるデッサン人形。人間などよりも遥かに大きく、体長は三メートルほどはあるだろうか。のっぺりと丸い頭部は、陶器のようにつるりとしていて現実味がなかった。
 それがギチリと首をきしませて……こちらを向く。

「ッ」

 背筋を駆け上がる悪寒――反射的に拓海の足は動き出していた。
 なんだなんだなんだ……⁉ なにも分からないまま逃げる拓海を、怪物はギチギチと関節を鳴らして追い駆ける。

「嘘だろ⁉」

 拓海も俊足ではなかったが、そもそも歩幅が違いすぎる。あっという間に距離を詰められ、道の真ん中で宵闇よりも濃い影が背中に迫る。
 絶望に存在ごと塗り潰されそうになった瞬間、たまたま進行方向に人影が立っていた。

「ま、マズ……っ!」

 気を取られて、足がもつれる。十六年の人生が終わる恐怖の中で、拓海は「逃げて」の一言を言い忘れて倒れ伏した。目を閉じる暇もない――否、拓海は〝光〟に目を奪われていた。
 目の前の人影がシアンカラーの光を振るう。丁度スイカ割りの要領で振り下ろされた光は、一刀両断。怪物の頭を真っ二つにしてみせた。
 ギチギチギチギチと、怪物が断末魔と共に黒い砂塵となって消える……そこで拓海は、やっとその人影が同年代の少女だと気づいた。

「君、は……?」

 セミショートのパーマヘアが五月の薫風に揺れる。怪物が目と鼻の先にまで迫っていたというのに、少女は柳眉を一ミリたりとも歪めていなかった。泣きボクロに彩られた意志の強そうな瞳が、土下座のような情けない姿で這いつくばった拓海を無感動に見下ろしている。

「名乗るなら、自分からがマナー」

 月明かりに照らされた白い喉が、しなやかに動く。

「あ、えっと……俺は青柳拓海」
「私は清水(しみず)ひたき。時代錯誤の――退魔師」

 ――これが、拓海とひたきの出会いだった。

  ◇

 その後はひとまず、ひたきの家で転んで擦り剥いた箇所手当てをすることになった。そう遠いところではないらしい。

「こっち」

 ……案内されたのはビル群の合間に建つ、古い雑居ビルだった。築年数的にも、そろそろ解体が視野に入ってくる頃合いだ。どう見ても女子学生の住居があるとは思えない。案内されるままに外階段を上がっていく。

「息つく暇もなくて辛いかもしれないけれど、エレベーターは最上階までで屋上まで繋がってないから」

 「屋上?」と不思議に思ったが、話の腰を折るのも躊躇われたので、黙ってついていくことにした。とはいえ、四階……屋上までなのだから五階か、それだけの高さを怪物に追い駆けられた全力疾走後に味わわされるのは、拓海も運動不足ではないが流石に堪えた。五月の夜なので、まだ本格的な夏ほどの暑さはないが、額にじっとりと汗が滲む。
 そうして辿り着いたのは――およそ住居とは言えないものだった。

「ここ」

 驚く拓海は言葉が出てこない――なにせ、タンカーにでも乗せられていそうな大型コンテナ(・・・・・・)だったからだ。

「入って」
「あ、うん……」

 こんな夜更けに女子の家に訪問するのははばかられたが、なりふり構ってはいられない。えいやっと上がり框でたたら踏む。
 内装は意外にも、普通の1Kだった。見渡せば、シューズボックス、水回り、小さな冷蔵庫、電子レンジ、クローゼット、エアコン、畳まれた布団がある。しかし、ひととおりの設備は整っているがモデルルーム以上の印象はなく、生活の雰囲気は薄かった。

「え、お風呂はどうしてるの?」
「後見人の家でさせてもらってる。さっきはその帰りだったから君も運がよかった。こっち来て、傷口を洗うから」

 頷く拓海に「あ、トイレは四階にある共同のを使って」とひたきは添える。手の横、握り締めた拳のまま擦った部分を水で流していく。その後見人のところで洗濯もしているのだろうか……などと考えているうちに終わり、「これで拭いて」とタオルを渡される。受け取った指先が触れた時、ひたきがなんとも言えない顔をしたのが気にかかった。

「あと絆創膏も貼るから」
「え? そこまでしなくても……」
「駄目。軽い傷でも舐めたら痛い目を見る。用意するから、それ飲んで待ってて。うちには水道水しかないから、お茶の代わり」

 顎で指したのは、帰り道の自販機で買っていたポカリだった。拓海は「ありがとう」と断りを入れてから傾ける。カラカラの喉には沁みるほど美味しく、一気に飲み干してしまった。

「しながらになるけど、端的に貴方の身に起こったことを説明する」

 ひたきは布団の横に置いてあった救急箱を寄せ、テキパキと中身を取り出す。慣れた手つきだった。

「あれは〝人間の存在する力を奪う怪物〟」
「名前は?」
「名前はない。怪物なんてものはあれ以外にいないから、〝怪物〟で十分。手、出して」

 オロナイン軟膏をわざわざ綿棒に取ってくれたらしい。ちょんちょんと丁寧な手つきが少しくすぐったい。

「『あの人が羨ましい』『成功者の足を引っ張りたい』……出る杭を打とうとする大衆の深層心理から生まれた怪物。貴方はしつこく狙われて、〝存在力〟……人間が存在するために必要なエネルギーを捕食された。動揺していない様子を見ると、自覚症状はあったんでしょう?」

 言われるまでもない。スマホが顔認証しない。自動ドアに無視される。LINEで返信できない。そしてとうとう、幼馴染の美空すら認識してくれなくなった。今や拓海と学校の廊下ですれ違っても、目を向けることすらない。

「普通はここまで存在力を奪われることはない。怪物の姿が認知できるようになって逃げられるから。でも、貴方が狙われた理由は触れて分かった。貴方には〝中央値の力〟がある」
「〝中央値の力〟?」
「大衆の存在力の中央値。言うなれば、究極の普通。怪物にとっては生きたサンプルみたいなもの。『ここまでなら奪っても人間は消えない』という定規。だからこぞって狙われる……普通はここまで悪化しないんだけど」

 まんべんなくオロナインを塗られた後に、絆創膏が貼られた。

「そういう君……清水さんは? 退魔師とかって言ってたけど……」
「ひたきでいい。私は退魔師の末裔……昔の日本でいえば陰陽師、外国ではエクソシストなどと呼ばれていた人達と同じ。でももう日本には私以外いないと思う」
「どうして?」
「言ったでしょう? あれしかいないから〝怪物〟でいいんだって。かつては河童とか天狗とかがいたけれど、それももういない。絶滅したから。退魔師も廃業していった」
「じゃあ、どうしてひたきさんがやってるの? いやまあ、そのおかげで俺は助かったんだけど……」
「趣味みたいなもの。……手当も済んだし、今日はもう帰るべき」

 ありていに言って、「それ以上は喋る気はない」という意志表示だった。とはいえ、拓海も別に深入りする気はない。線引きは逆にありがたいと立ち上がった。

「うん。助けてくれてありがとう。良ければ今度、お礼にお菓子かなにか持ってくるよ」
「礼には及ばない――運がよければ(・・・・・・)また会えるから(・・・・・・・)
「?」

 毎晩パトロールしているという意味だろうか……かすかな謎を残し、その日は解散となった。それでなくともゴールデンウィークの最終日。明日から学校だと、拓海は足早に帰宅し床に就いた。

 ――そして。

「はーい、ちょっと時季外れだけど、転校生です」

 担任の声に、朝から顔がグチャグチャに歪むのを禁じ得ない。この時ばかりは拓海も存在が希薄になっていることに感謝した。

清水ひたきです(・・・・・・・)よろしくお願いします(・・・・・・・・・・)

 命の恩人が――転校生としてやってきた。

  ◇

 ホームルームが終わると、ひたきの周りには黒山の人だかりができた。時季外れの転校生ということでクラス全体が浮かれ調子だったのもあるが、なによりひたきが美人ということもあって目に見えて色めき立っていた。
 けれども昨晩接しただけの拓海にも分かったが、ひたきはあまり愛想がいい方ではない。「なんでこのタイミングで転校してきたの?」に対しては「保護者の都合です」、「どんなものが好きなの?」に対しては「特に趣味と呼べるものはありません」、「どこに住んでるの?」に対しては「個人情報なので控えさせてもらいます」……段々と人の波は引いていき、昼休みを迎える頃には拓海が教室から連れ出すのに苦労しないぐらいになっていた。

「あんなのでよかったの?」

 拓海はなんとかいまだ用意のある母親手製の残り物弁当をつつくと、ひたきは「うん」と素っ気なく認めた。

「実際、私はバズってるアイドルも知らないから」

 そう言って、ひたきはファミマのサンドイッチをついばんだ。知ってか知らずか、口調が元に戻っている。拓海は少しでも心を許せているのならばそれでいいと、白飯をかき込んだ。
 中庭のベンチは隠れた穴場スポットだった。そもそも外に出てまで食事をする物好きな生徒がいないのもそうだが、五月晴れの爽やかな風が通ると、拓海にはそれが勿体ない気がして仕方なかった。

「昨日の話の続きだけれど――」

 早々にサンドイッチを食べ終わり、そのゴミをひとまとめにしながら。

「――できれば私に協力してほしい」
「俺、別になにもできないけど……」
「そうでもない。〝中央値の力〟は、存在力が減った相手に触れることで、ある程度回復させることができる」

 不思議な話に目を白黒させる拓海に、「それに、今怪物に襲われたら存在が消えかねない。そういう意味でも、私がそばにいることは理に適っている」とひたきは続ける。いわば互助関係を築きたいということだ。

「うん、分かった。協力する」

 あの、怪物に襲われて逃げ惑った時の心細さを思えば、つっぱねる道理はなかった。

「了承してもらえてよかった。私じゃ存在力を回復させることはできないから」
「あんな怪物を倒してる方が凄いと思うけど……」

 「そうでもない」と、やおらひたきが立ち上がる。

「退魔師はみんな、自分の存在力を操って武器にしてきた」

 空を握った右手に、昨晩見たシアンカラーが伸びる。抜き身の刀のように見えるそれは、怪物を一刀両断した刃だった。

「これもそう。あと存在を薄めれば、物理法則を無視した動きもできる。存在力を武器に変換するような芸当まではできないとしても、貴方も存在力が回復途上で固定されていない状態だから、慣れればできると思う」
「えっ……マジ?」
「マジ。それに身につけた方が怪物からも逃げやすくなって超お得」

 「そんな割引セールじゃないんだから……」などと頭を抱えつつも、拓海にとってはいずれにせよ渡りに船だった。

「じゃあ今日から練習させてもらってもいい?」

 ひたきは「勿論」と快諾したが、その横顔には隠しきれないかげりが見て取れた。

「私としてもそれに越したことはないと思ってた――クラスメイト何人かの存在が(・・・・・・・・・・・・)既に消えかけているから(・・・・・・・・・・・)
「…………っ!」

 ――拓海が思うよりも早く、事態は急速に動き始めているようだった。