大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

 掴まれた左腕が鈍い痛みを訴える。澄乃はなだめるように腕を押さえ、窓外に目を向けた。せめて視界から冴子を追い出したかった。冴子は話しかけて来なかった。

 窓の外を冬枯れの街路樹が流れ、市電の線路が日差しを弾いて白く光る。

 やがて車が一条邸の門を入り、玄関先に止まった。

 運転手が慇懃にドアーを開けると同時に、澄乃は書類挟みを胸に抱えて車を降りた。礼を述べる気にはなれない。ただ一刻も早くこの車から離れたかった。

 香水の匂いから解放され、冷えた空気に包まれてホッと息をつく。

「澄乃さん」

 冴子が車内から呼んだ。外から見えるのは口許だけだ。三日月型の赤い唇。

「──橘様が毎日このお屋敷へお帰りになるのは、単にご自分が引き受けた家へ戻ってくるだけかもしれなくてよ。あなたのもとへ帰ってきていると言えるかどうか、わかりませんわね。では、ごきげんよう」

 澄乃が絶句していると、運転手がドアーを閉めて一礼した。

 自動車がゆっくりと動き出す。門を出ると発動機(エンジン)音が高まり、速度を上げて遠ざかっていった。

 澄乃は一条邸の玄関前に、呆然と立ち尽くしていた。

『ただいま戻りました』

 毎日聞いている朔也の声。

 あの声は澄乃に向けられて発せられるけれど、本当に自分に向けて言っているのだろうか。それとも単に、この家に戻ってきたと報告しているだけなのか。

 気付いた佐和が出てきて中に入るよう促されるまで、澄乃は棒立ちになったまま、冴子の車が去った門に見開いた目を向けていた。


        * * *


 澄乃は刺繍台の前に座り、左腕をそっとさすった。

 千夏と佐和の声は、もう聞こえない。

 そっと着物の袖口をたぐり、肘の上までたくし上げる。

 痣が消えていることを確かめ、澄乃は嘆息した。つい先日までくっきりと指の痕が残っていて、入浴や着替えのたびに目に入り、厭な心持ちになった。

 朔也に見つかる機会はまずないとして、佐和には絶対に気付かれないよう気をつけた。理由を聞かれて嘘をつくのも厭だが、冴子との遣り取りを話したくもない。

 袖を戻し、針山から針を手に取った。糸を通そうとすると指先が震え、いつものようにすっと通らない。

 痣は消えても、悪意を上品に包んだ冴子の声が薄れることはなかった。

『あなたのもとへ帰ってきていると言えるかどうか、わかりませんわね』

 朔也を出迎えるたび、『ただいま戻りました』と告げる声を聞くたびに、毒をふくんだその言葉が耳の奥に蘇る。

 日が経つほどに疑念は深まる一方だった。

 痣は消えたのではなく、ただ心の内側に反転しただけかもしれなかった。