「朔也さんは、もう一条家の人です」
「そうだとしても、橘様がいらっしゃる前はなかったわけでしょう? 一条様のお屋敷には何もなかった。橘様は本当に、何から何まで持参しなければならなかったのだわ。どんなに大変だったことか……。いくら自由に自動車を使わせていただけるからといって、それが一条家のものだと考えるのはどうかと思いますわ」
気の毒そうに言われ、澄乃の辛抱も限界に達した。
「──失礼します」
澄乃は一礼して冴子の脇をすり抜けた。百貨店の玄関に向かって突き進む。道行を店に預けたことなど、すっかり頭から飛んでいた。
「お待ちなさい」
冷ややかな声がすぐ後ろで聞こえ、左肘の少し上を力任せに掴まれた。
着物越しでも指の一本一本まではっきりわかるくらいの容赦ない力に、思わず顔をゆがめる。
「きちんと送り届けると、篠田様にお約束しましたのよ」
冴子の声は、駄々っ子をあやすかのように優しげでありながら、逆らうことを絶対に許さない響きをおびていた。
「は、放してください」
小声で抗議して振り払おうとすると、さらに強く掴まれた。骨をも砕くかのような容赦のなさに冷や汗が浮かぶ。
抗議を込めて睨んだが、冴子はにこやかな微笑を浮かべていた。脅迫するような目の色とまったく噛み合わない表情だ。
「皆様が御覧になっていましてよ。おとなしく、わたくしの車へお乗りになって」
耳元で囁かれる。周囲からは、仲のよい友人同士がひそひそ話をしているようにしか見えないだろう。
腕を掴まれたまま、道行を預けた部屋に連れて行かれた。そこで冴子も自分の外套を受け取って何食わぬ顔で着込んだ。
複数の店員にうやうやしく見送られて外に出ると、すでに高宮家の自動車が正面に停まって運転手がドアーを開けていた。冴子の指示で、待機していた車を店員が呼んだのだ。
冴子はさっさと乗り込み、傲然と顎をしゃくった。
ここでなお拒んで店先で騒ぎを起こしたくはない。澄乃は諦めて車に乗り込んだ。
ドアーが閉まると、外の喧騒が急に遠くなった。革張りの座席も窓も、何もかもが磨き上げられて光沢を放っている。高宮家の権勢と財力を如実に示す、豪奢で重厚な車だった。
車内に密閉されると、冴子が身につけている香りが今まで以上にくっきりと鼻腔を突いた。シャネルの五番……とか言っていた、叔父からの巴里みやげだという香水だろうか。
香りは顔や名前より、ずっと強く記憶に残るのだと彼女は言った。確かに今後、この香りをかぐたびに思い出して厭な気分になりそうだ。
「そうだとしても、橘様がいらっしゃる前はなかったわけでしょう? 一条様のお屋敷には何もなかった。橘様は本当に、何から何まで持参しなければならなかったのだわ。どんなに大変だったことか……。いくら自由に自動車を使わせていただけるからといって、それが一条家のものだと考えるのはどうかと思いますわ」
気の毒そうに言われ、澄乃の辛抱も限界に達した。
「──失礼します」
澄乃は一礼して冴子の脇をすり抜けた。百貨店の玄関に向かって突き進む。道行を店に預けたことなど、すっかり頭から飛んでいた。
「お待ちなさい」
冷ややかな声がすぐ後ろで聞こえ、左肘の少し上を力任せに掴まれた。
着物越しでも指の一本一本まではっきりわかるくらいの容赦ない力に、思わず顔をゆがめる。
「きちんと送り届けると、篠田様にお約束しましたのよ」
冴子の声は、駄々っ子をあやすかのように優しげでありながら、逆らうことを絶対に許さない響きをおびていた。
「は、放してください」
小声で抗議して振り払おうとすると、さらに強く掴まれた。骨をも砕くかのような容赦のなさに冷や汗が浮かぶ。
抗議を込めて睨んだが、冴子はにこやかな微笑を浮かべていた。脅迫するような目の色とまったく噛み合わない表情だ。
「皆様が御覧になっていましてよ。おとなしく、わたくしの車へお乗りになって」
耳元で囁かれる。周囲からは、仲のよい友人同士がひそひそ話をしているようにしか見えないだろう。
腕を掴まれたまま、道行を預けた部屋に連れて行かれた。そこで冴子も自分の外套を受け取って何食わぬ顔で着込んだ。
複数の店員にうやうやしく見送られて外に出ると、すでに高宮家の自動車が正面に停まって運転手がドアーを開けていた。冴子の指示で、待機していた車を店員が呼んだのだ。
冴子はさっさと乗り込み、傲然と顎をしゃくった。
ここでなお拒んで店先で騒ぎを起こしたくはない。澄乃は諦めて車に乗り込んだ。
ドアーが閉まると、外の喧騒が急に遠くなった。革張りの座席も窓も、何もかもが磨き上げられて光沢を放っている。高宮家の権勢と財力を如実に示す、豪奢で重厚な車だった。
車内に密閉されると、冴子が身につけている香りが今まで以上にくっきりと鼻腔を突いた。シャネルの五番……とか言っていた、叔父からの巴里みやげだという香水だろうか。
香りは顔や名前より、ずっと強く記憶に残るのだと彼女は言った。確かに今後、この香りをかぐたびに思い出して厭な気分になりそうだ。
