大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

 菫、薔薇、百合、聞き慣れない香料もある。白檀や伽羅といった昔ながらのお香の匂いに慣れている澄乃には、どれも複雑で強すぎる香りに感じられた。

 冴子は一本の瓶を指さし、店員から香水を吹きかけた紙片を受け取ってかいだ。

「……悪くないけど、先日叔父様から巴里(パリ)みやげにいただいた、シャネルの五番のほうが好きだわ。あちらでも出たばかりで、まだ日本には入ってきていないのよ」

「そうですか」

 澄乃は当たり障りなく受け流したが、ここぞとばかりに女店員が調子のいいお追従を述べ始める。軽く頷いて受け流した冴子は紙片を澄乃に向けてひらひらさせた。

「澄乃さんも、おひとつ試してごらんなさいな」

「香水はつけませんので」

 無礼にならない程度にそっけなく返すと、冴子は軽く目を瞠った。

「あら、もったいない。ご存じ? 香りというのは顔や名前よりも、ずっと強く記憶に残るものなのですってよ。不思議ですわね」

 冴子は紙片を顔の前で軽く振った。薔薇の甘い香りが澄乃にまで届く。

「御主人のお好きな香りを選んで身につけるのも、若奥様のお楽しみでしょうに。橘様は、どのような香りがお好みかしら」

「……存じません」

 朔也が好む香りなんて、考えたこともない。洒落者の華族であれば、男性でも軽い香水くらいつけることは知っている。父も元気な頃はつけていたように思う。

 だが朔也からは、風呂上がりの石鹸の香りの他に人工的な匂いを感じたことがなかった。結婚してひと月あまりだが、彼が重視しているのは何より清潔さだということはすでに理解している。

「あら、まぁ」

 冴子は、信じられないといった面持ちで澄乃を眺めた。

 驚いているのか、それとも呆れているのか。哀れむような微笑と値踏みするかのような視線が、ひどく不快だった。顔を背けると、たまたまそちらは化粧品売場だった。目敏く気付いた冴子が強引に背中を押す。

「お化粧品も見ましょうよ。奥様になったのだから、もう少しお化粧してもいいのではなくて?」

 有無を言わせず化粧品売場に連れて行かれた。口紅、頬紅、白粉など、こちらも美しい容器に収まったものが陳列されている。

 冴子は慣れた手つきで見本の口紅を取り、中身を繰り出して眺めた。

「この色、今年の流行だそうよ。少し橙がかっているのね」

 それを耳にした店員が笑顔で説明を始めた。色違いの口紅を自分の手の甲に引き、色味を見せる。

 澄乃はとまどった。色彩を見分ける目は持っているつもりだが、それは刺繍の配色を考えるのに必要だからであって、自分の唇に塗る色として考えたことなどない。