大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

「……冴子様も」

 会釈を返す。椿山御殿で鉢合わせた日のことが否応なく脳裏に浮かんだ。あのとき棘をふくんだ冴子の言葉を毅然と跳ね返してくれた朔也は、今ここにいない。

 微妙な空気に気付かず、篠田夫人はあっけらかんと冴子に話しかけた。

「今日はおひとり?」

「お直しを頼んでいた洋服を受け取りに来ただけですの」

「あら、どこかへお出かけに? そういえば、近頃なにかよいお芝居などご覧になりまして?」

「そうですわね。先日の歌舞伎座の新春興行など、なかなかのものでしたわ」

 冴子は篠田夫人と、当たり障りのない会話を交わし始めた。帝劇の演目や、錦華屋の新しい輸入品、共通の知人についてのあれこれ。

 ひとしきり話が済むと、冴子は礼儀正しい口調で切り出した。

「篠田様、少しお願いしてもよろしいでしょうか」

「まぁ、なぁに?」

「澄乃さんとは女学校の卒業以来ほとんどお目にかかっていませんの。今日は少し売場を眺めてから帰宅するつもりでしたけれど、少し澄乃さんをお借りしてもよろしくて? もちろん、帰りは責任をもって一条様のお屋敷までお送りいたしますわ」

「あら、いいわね。そうなさいよ、澄乃さん」

 無邪気に勧められ、澄乃は口ごもった。篠田夫人は冴子と澄乃が同じ女学校の先輩・後輩であることは承知していても、朔也をめぐってわだかまりがあることまでは知らない。

「あの、わたし──」

 できれば断りたい。だが、強く拒んで何かあったのかと勘繰られるのもいやだった。

「……では、そうさせていただきます」

 篠田夫人はハンドバッグを手に、にこやかに立ち上がった。

「それじゃ、わたくしは先に帰るわね。冴子さん、澄乃さんをよろしく」

「もちろんですわ」

「澄乃さん、今日は楽しかったわ。またお屋敷に伺うわね」

 はい、と澄乃が頭を下げると、夫人はにっこりして部屋を出て行った。

 扉が閉まり、絨毯を踏む鈍い音が廊下を遠ざかってゆく。室内がしんと静まり返ると、空気の温度まで下がったように感じられた。

 篠田夫人と一緒に帰らなかったことを激しく後悔する。

 冴子はゆっくりと珈琲を飲み干し、音もなくカップを皿に戻した。

「お久しぶり──というほどでもないのかしら? 椿山御殿以来ですわね」

 冴子は口元だけで微笑んだ。

「せっかくですもの、一緒に売場を見て回りましょ」

 今さら断れない。澄乃は書類挟みを抱え直し、しぶしぶ冴子の後に続いた。



 エレベーターで一階に下りる。午後になって小物売場はいっそう賑わいを増していた。

 慣れた様子で進んでいた冴子は香水売場の前でふと足を止めた。

 小さな硝子瓶がずらりと棚に並んでいる。金や銀の飾り栓のついた、凝った作りの美しい小瓶ばかりだ。ほとんどは輸入品だが、何年か前に資生堂が売り出した『花椿』も並んでいる。

 商品名に、どのような香りなのかも簡単に書き添えられていた。ざっと見た限り、花の香りが多いようだ。