篠田夫人が目を瞠り、焦り気味に頷く。
瀬田は金縁眼鏡の縁にちらと指を触れ、恐縮した様子で頭を下げた。
「失礼いたしました。篠田様から『澄乃様』というお名前を伺いましたので、私どものお得意先に心当たりはないかと尋ねてみたのです。とある方が、澄乃様といえば一条伯爵家の御令嬢で間違いなかろうと。それで少し調べましたところ、先頃婿取りをなさった一条澄乃様と確信いたしました」
百貨店の常務ともなれば、客や取引相手のことを事前に調べてもおかしくない。澄乃は朔也が瀬田を知っていたことを思い出した。
「瀬田様は、主人とはお知り合いでしょうか」
「一、二度、お目にかかったことはございます。わたくしどもは以前、軍関係の取引もしておりましたので。大変、堅実な方とお見受けいたしました」
「……そうですか」
瀬田は穏やかに微笑んだ。
「それでは、改めてこちらから企画と条件を書面にしてお屋敷にお届けいたしましょう。それを御覧になったうえで、お決めいただければ」
「わかりました」
「具体的にご検討いただけるよう、催事の概要なども添えてお届けいたしましょう」
「ご丁寧に」
会釈すると、瀬田は居住まいを正して返礼した。
「そろそろ時分どきですし、このままこちらで昼食を召し上がってはいかがでしょう」
「食堂へ行くつもりでしたけど、ここでよろしいのかしら?」
篠田夫人が尋ねると、瀬田は頷いた。
「もちろんでございます。メニュー表をお持ちしますので、お好きなものをお召し上がりください。私は仕事がございますので、これで失礼いたします」
瀬田は立ち上がってうやうやしく一礼した。
「一条様、本日はお運びいただき、まことにありがとうございました」
「こちらこそ」
澄乃が頭を下げると、瀬田は丁寧に会釈を返し、静かに退室していった。
扉が閉まると、篠田夫人がうきうきと身を乗り出した。
「ね、よい方でしょう?」
「……はい。ずいぶんとよく見てくださいました」
「あれほど澄乃さんのお仕事をわかってくれる方は、なかなかいらっしゃらなくてよ。錦華屋に並べば、澄乃さんもたちまち名の知られた刺繍作家ね」
「そんな」
「有名になっても、わたくしの注文を受けてくださるかしら」
「もちろんです」
澄乃が真剣に頷くと、篠田夫人は上機嫌に笑った。
まもなく給仕がメニュー表を持って現れ、澄乃はクロケット(クリームコロッケ)を、篠田夫人は鱒のムニエルを選んだ。
やがてワゴンに載せられた料理が届き、金線の入った白磁の皿に盛られた洋食の昼餐が、テーブルの上に並べられる。
揚げたてのクロケットはカリカリの食感と、とろりとしたベシャメルソースがとても美味しかった。
食事が済むと、珈琲と小さなチョコレートケーキが出された。
篠田夫人がカップに口をつけると同時に扉が敲かれ、今し方出ていったばかりの給仕が恐縮顔を覗かせた。
「失礼いたします。高宮侯爵様のお嬢様が、篠田様にご挨拶をとおっしゃっておられるのですが……」
「高宮様? まぁ、奇遇ね。どうぞお通しして」
扉が大きく開かれ、若い女性が現れる。
鉄紺のワンピースに銀鼠色の毛皮を襟元にあしらった細身の外套。銀の留め金のついた小型のハンドバッグ。つばの狭い黒い帽子の下から、隙のない微笑が覗く。
完璧に整えられた装いで、高宮冴子が微笑んだ。
「あら。澄乃さんも御一緒でしたの」
赤い口紅を塗った唇が、艶麗な弧を描いた。
瀬田は金縁眼鏡の縁にちらと指を触れ、恐縮した様子で頭を下げた。
「失礼いたしました。篠田様から『澄乃様』というお名前を伺いましたので、私どものお得意先に心当たりはないかと尋ねてみたのです。とある方が、澄乃様といえば一条伯爵家の御令嬢で間違いなかろうと。それで少し調べましたところ、先頃婿取りをなさった一条澄乃様と確信いたしました」
百貨店の常務ともなれば、客や取引相手のことを事前に調べてもおかしくない。澄乃は朔也が瀬田を知っていたことを思い出した。
「瀬田様は、主人とはお知り合いでしょうか」
「一、二度、お目にかかったことはございます。わたくしどもは以前、軍関係の取引もしておりましたので。大変、堅実な方とお見受けいたしました」
「……そうですか」
瀬田は穏やかに微笑んだ。
「それでは、改めてこちらから企画と条件を書面にしてお屋敷にお届けいたしましょう。それを御覧になったうえで、お決めいただければ」
「わかりました」
「具体的にご検討いただけるよう、催事の概要なども添えてお届けいたしましょう」
「ご丁寧に」
会釈すると、瀬田は居住まいを正して返礼した。
「そろそろ時分どきですし、このままこちらで昼食を召し上がってはいかがでしょう」
「食堂へ行くつもりでしたけど、ここでよろしいのかしら?」
篠田夫人が尋ねると、瀬田は頷いた。
「もちろんでございます。メニュー表をお持ちしますので、お好きなものをお召し上がりください。私は仕事がございますので、これで失礼いたします」
瀬田は立ち上がってうやうやしく一礼した。
「一条様、本日はお運びいただき、まことにありがとうございました」
「こちらこそ」
澄乃が頭を下げると、瀬田は丁寧に会釈を返し、静かに退室していった。
扉が閉まると、篠田夫人がうきうきと身を乗り出した。
「ね、よい方でしょう?」
「……はい。ずいぶんとよく見てくださいました」
「あれほど澄乃さんのお仕事をわかってくれる方は、なかなかいらっしゃらなくてよ。錦華屋に並べば、澄乃さんもたちまち名の知られた刺繍作家ね」
「そんな」
「有名になっても、わたくしの注文を受けてくださるかしら」
「もちろんです」
澄乃が真剣に頷くと、篠田夫人は上機嫌に笑った。
まもなく給仕がメニュー表を持って現れ、澄乃はクロケット(クリームコロッケ)を、篠田夫人は鱒のムニエルを選んだ。
やがてワゴンに載せられた料理が届き、金線の入った白磁の皿に盛られた洋食の昼餐が、テーブルの上に並べられる。
揚げたてのクロケットはカリカリの食感と、とろりとしたベシャメルソースがとても美味しかった。
食事が済むと、珈琲と小さなチョコレートケーキが出された。
篠田夫人がカップに口をつけると同時に扉が敲かれ、今し方出ていったばかりの給仕が恐縮顔を覗かせた。
「失礼いたします。高宮侯爵様のお嬢様が、篠田様にご挨拶をとおっしゃっておられるのですが……」
「高宮様? まぁ、奇遇ね。どうぞお通しして」
扉が大きく開かれ、若い女性が現れる。
鉄紺のワンピースに銀鼠色の毛皮を襟元にあしらった細身の外套。銀の留め金のついた小型のハンドバッグ。つばの狭い黒い帽子の下から、隙のない微笑が覗く。
完璧に整えられた装いで、高宮冴子が微笑んだ。
「あら。澄乃さんも御一緒でしたの」
赤い口紅を塗った唇が、艶麗な弧を描いた。
