大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

 瀬田の口調が改まり、澄乃は目を上げた。

「一条様ご本人に繍っていただくのは最上級の一点物のみ。それ以外は一条様の図案を基に私どもが選んだ職人に繍わせます」

「え……?」

「図案さえお作りいただければ、職人は腕のよい者たちをこちらで揃えられます。一条様は、ご自分にしかできないお仕事に時間をお使いになってください」

 自分は図案だけを描き、繍うのは別の人……?

 一人で繍えば何日もかかるものが、複数の職人に任せれば、もっと多くの品を作れる。確かに合理的だ。

 でも──。

「……自分で繍わないのに、それをわたしの刺繍だと言えるのでしょうか」

 瀬田は穏やかに、しかし迷いなく答えた。

「一条様のご指示どおりに職人が繍えば、それは一条様がお作りになった品と申して差し支えないでしょう。意匠は一条様のものなのですから。一人ですべてを作られるより、そのほうが多くの方へ届けることができます」

 理屈としては筋が通っている。

 しかし、図案を描くことと実際に繍うことを、澄乃はこれまで分けて考えたことがなかった。

 瀬田の言葉に悪意は感じられない。自分の仕事を高く評価してくれているからこその提案なのだろう。

「こちらを数日お預かりできれば、当店の者とも相談のうえ、具体的な企画にまとめられるのですが」

 瀬田が、小卓に広げたままの下絵と写しに視線を向ける。

 澄乃は迷った。これほどまでに自分の仕事内容を正確に言い当てた人はいなかった。提案にも魅力を感じる。

 それでも、朔也の言葉を押し退けられない。

 『大切な、ものですから』

 朔也は澄乃の刺繍を大切にしてくれる。

 そう、もしかしたら澄乃自身が考えるよりも、もっと、ずっと。

 見せるだけ。何も預けない。約束をしない。

 彼と交わした言葉を内心で繰り返す。

「──申し訳ございません」

 澄乃は静かに、しかしきっぱりと口にした。

「本日は、お見せするだけと決めてまいりました。どのようなお仕事になるのか、条件をきちんと伺うまでは、図案をお預けすることはできません」

「それは、ご主人のお言いつけですか」

 やんわりと問われ、軽い反発を覚える。

「言いつけではありません。そのほうがいいと助言してくれたのです」

「なるほど。橘少佐らしい。……いや、今は一条少佐か」

 澄乃は眉をひそめた。

「……そういえば、どうしてわたしの名字をご存じなのですか。伝えたのは下の名前だけと篠田様からは伺いましたが」