有能すぎる押しかけ婿様に完全包囲されました

 朝食の席は、昨夜の気まずさを未だ引きずっているように静かだった。

 (つま)しい食事をそそくさと済ませ、作業部屋に引きこもる。

 擦り切れた絨毯に薄い座蒲団を敷き、正座して澄乃は刺繍台を見つめた。

 篠田伯爵夫人の訪問着。

 裾に入れる南天の文様は、やっと半分終わったところだ。

「……急がないと」

 呟いて針を手に取る。

 南天の赤い実を()いながら、ふと『難を転ずる』という意味合いが妙に皮肉に思えた。

 針を動かしながらも、ふとした拍子に橘少佐の冷たい横顔が浮かび上がる。

 それが腹立たしくて、澄乃は一心不乱に刺繍に没頭した。

 どれだけ時間が経ったのか、扉が遠慮がちに(たた)かれた。

「お嬢様。お仕事中、失礼いたします」

 はっと澄乃は針を止めた。

 すっかり足が痺れている。

「なぁに、佐和」

 針山に針を戻し、足袋の上から足をさすりながら尋ねると、扉越しに佐和が答えた。

「橘様から身上書が届きました」

「……身上書」

 縁談相手に渡す自己紹介書で、通常は仲人を通して交わす。

 見てなかったかしら……と、首を傾げ、思い出した。

 そうだった。

 仲人を通すどころか、前触れもなくいきなり婿入り希望の本人がやってきたのだ。

「今さら?」

 つい、尖った声が出てしまう。

 扉の向こうで佐和は苦笑したようだった。

「はい。旦那様がお呼びでございます。書斎へお越しになってくださいませ」

「わかりました」

 佐和が立ち去る足音を確かめてから、澄乃はゆっくりと立ち上がった。

 裾を整え、並べておいたスリッパに足を入れると、澄乃は部屋を出た。

 作業部屋として使っている小部屋は一階の北側で、冬は寒いけれど一日を通して明るさの変化が少ない。

 東南向きの父の書斎に入ると、その明るさに澄乃は目を細めた。

 舶来品の大きな書き物机に並べた二通の封筒を、篤之はやや憮然とした顔で眺めていた。

 机の前に立つと、父は椅子の背にもたれて澄乃を見上げた。

「身上書と書状を、橘少佐の部下が届けてきた。順序が前後して大変申し訳ない、とのことだ」

 父は『身上書』と細めの筆で墨書された封筒を開け、三つ折りの紙を取り出した。

 ざっと眺め、澄乃に差し出すと、もう一通の封筒を開いた。

 そちらには『一条篤之様』と同じ筆跡で書かれている。

 澄乃は両手で書状を持って眺めた。

 万年筆で簡潔な履歴が綴られている。

 止めや払いがはっきりした、端正な字体だ。

 姓名、橘朔也。

 生年月日は明治二十七年十二月六日。

 ということは──二十八歳になったばかりだ。

 本籍地は栃木県雨岡市、現住所は東京市牛込区市谷台町となっている。

 学歴は高等小学校卒業後、陸軍地方幼年学校を経て中央幼年学校。

 のち、陸軍士官学校歩兵科を卒業。

 少尉任官。

 連隊付き小隊長として勤務開始。

 二年後、中尉に昇進し、連隊副官。

 大陸北方に派遣され、現地で大尉に昇進。

 三年後、帰国。

 少佐に昇進。

 現、陸軍省兵站(へいたん)局勤務。

「陸軍大学校は出とらんようだ。実務畑での叩き上げだな。それであの若さで少佐となると……大陸でよほどの働きをしたと見える」

 書状を置いた父が、顎を撫でて呟いた。

「……兵站局というのはどのような部署ですか?」

 澄乃の問いに、父は口ごもることもなく答えた。

「兵や食糧、被服、弾薬をどこへどう送るかを扱う、いわば軍を後ろから動かす部署だ。派手ではないが、ここが滞ればたちまち動けなくなる」

 父はそう言うと、納得したように頷いた。

「先の出兵は、補給でずいぶん苦労したと聞いている。……ふむ。彼はそちらで功績を上げ、出世したのだな」

 どうやら橘少佐の軍功は前線で華々しい武勲を上げたというよりも、軍全体を支える方面だったらしい。

 確かに地味だが重要な仕事だろう。

 弾薬や食料がなければ軍隊は動けない。

 それくらいは軍のことなど知らない澄乃でもわかる。

 澄乃はふと、父の手許に目を遣った。

「そちらのお手紙は?」

「ああ、詫び状だ。身上書と見合いの順序が逆になって申し訳なかったと」

 昨日の()()は見合いだったのかと、澄乃は腹立ち以上に呆れながら続きを読んだ。

 あとは親族についての簡単な記載だった。

 父・橘恒一(つねいち)一六八(いろは)銀行本店取締役。

 母・千鶴子(ちづこ)

 兄・修治郎(しゅうじろう)。一六八銀行東京支店次長。

 弟・道明(みちあき)。東都医学専門学校在学中。

 以上。

「……ご立派ですわね」

 思わず澄乃は呟いた。

 身上書をたたみ、机にそっと置く。

「どう思う?」

 父の問いに、澄乃は静かに繰り返した。

「大変ご立派な経歴です」

 そう、立派すぎる。

 今の一条家の婿としては、あまりにも。

 篤之は居心地悪そうに身じろぎし、座れと手振りで示した。

 澄乃は応接用のソファに浅く腰掛けた。

 父はステッキをついて立ち上がり、机のこちら側に回って軽くもたれた。

「昨日も話していて感じたが、悪い男ではないと思う」

 澄乃は黙ったままでいた。

 悪人ではない、という意味なら確かにそうだろう。

 かたくなな娘の表情に、篤之はかすかな溜め息を洩らした。

「決めるのはおまえだ。ただ、今の私には、これ以上の縁談を用意してやれない。すまない、澄乃」

 澄乃は驚いて顔を上げた。

「お父様が詫びられるようなことではございません」

「おまえには、天下一の夫を取ってやるつもりだった。おまえが生まれたときに、そう決めたのだ。嫁入りでも婿取りでも、誰より立派な、最高の相手を……と」

 澄乃は絶句し、机の上に置かれた身上書を見た。

 父と母がともに壮健で、一条家が昔のように華やいでいたら。

 そのような時に橘少佐が婿入りを望んだとしたら、父は撥ねつけたのだろうか。

 伯爵令嬢(むすめ)にはふさわしくない、と。

 何が『立派』で、何が『最高』なのだろう。

 それは、その時々の経済状況で変わるようなものなのだろうか。

 自分を見つめていた橘少佐の凛としたまなざしを、澄乃は思い浮かべた。

 少なくとも、あのまなざしは野卑ではなかった。

 下劣でもなければ、ただ人を値踏みするような計算高さも感じなかった。

 身上書を見ても、彼が没落華族に婿入りしたがる理由は、やはりわからなかった。

 財産目当てでないのは確かだ。

 かといって社会的地位や権威を欲しているのかと言うとそれも違う。

 理由は、きっとあるのだろう。

 橘少佐にとって、何かとても大切な理由。

 借財を肩代わりしてまで一条家に婿入りしようという、切実な理由が。

 そして澄乃には、なんとしても守りたいものがある。

 ならば……取り引きの余地はある。

 澄乃は立ち上がり、父に軽く頭を下げた。

「橘様は、またいらっしゃると仰いました。お返事はそのとき直接申し上げたいと思います。よろしいでしょうか」

「もちろんだ」

 篤之は、複雑そうな微笑を浮かべて頷いた。

 澄乃はもう一度頭を下げ、静かに書斎を出た。

 作業部屋に戻り、正座してふたたび針を持つ。

 繍い終えた南天の赤い実を見つめ、澄乃はゆっくりと絹地に針を刺した。

 難を転ずる。

 そう、自分自身で。

 それが、どれほど零落しようと絶対に手放せない、澄乃の矜持だった。