大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

「あら、瀬田さん。商談はもうよろしいの」

 快活に篠田夫人が応じる。気を取り直して振り向くと、三十代前半と思われる男性が穏やかな微笑を浮かべて会釈していた。

「お待たせして申し訳ございません」

 撫で肩のすらりとした体格に、上等な三つ揃い。細い金縁眼鏡をかけている。背は高いが、六尺(約182センチ)を超える長身の朔也よりは頭半分ほど低そうだ。

 瀬田は柔和な茶褐色の目を澄乃に向け、丁寧にお辞儀をした。

「一条様でいらっしゃいますね。瀬田利一と申します。本日はお運びいただき光栄にございます」

「初めまして」

 お辞儀を返しながら、何故名字を知っているのかと少し不審を覚えた。篠田夫人が教えたのは下の名前だけだったはず……。

「雪持ち椿の半襟と手巾を拝見して以来、ぜひ一度お目にかかりたいと思っておりました」

 瀬田が愛想よく微笑むと同時に、朔也の声が耳の奥によみがえった。

『無条件に信用してよい相手とは言いかねます』

 暖炉の前に並んで座りながら告げられた、静かな警告。

 目の前の柔和な笑みと、あの固い声音が、うまく重ならない。

「静かな部屋をご用意しております。よろしければ、そちらでお品を拝見してもよろしいでしょうか」

 瀬田が廊下の奥を手で示す。

「さぁ、参りましょう、澄乃さん」

 篠田夫人に促され、澄乃は頷いて書類挟みを抱え直した。

 この書類挟みの留め金を、朔也はひとつひとつ留めてから手渡してくれた。

『大切な、ものですから』

 見せるだけ。預けない。約束しない。

 朔也と交わした言葉を心の中で繰り返し、澄乃は慎重に一歩を踏み出した。