由緒ある名望家の出身で、一族は銀行の経営に携わっている。
そんな前途洋々たる人物が、何故わざわざ多額の借金を背負い込んでまで没落華族に婿入りしたがるのか。
一条伯爵という称号に、よほどの思い入れでもあるのだろうか。
しかし、父が昔多少の口利きをしたという以外に、なんの縁もないはずだ。
絶対、何か裏がある。
あの男は何か企んでいるのだ。
きっと、よからぬことを。
そうだとしても、逃げ道はない。
確かに父は言った。断ってもよい、と。
だが、断れば屋敷の差し押さえは不可避となる。
この寒空に放り出されたら、体調のよくない父と年老いた佐和を抱えて生きていくなんて、どう考えても無理だ。
頼れる親類はいない。
もともと親族が少なかった上に、数年前に大流行した西班牙風邪で親類縁者が次々と亡くなり、気がつけば一条家は断絶寸前になっていた。
時期的に、年内の注文はもう取れない。
正月明けまでに澄乃が用意できる金額では借財の一割も返せないのは明らかだし、父もごく限られた人脈をすでに使い果たしたようだ。
「……佐和のお給金も、払ってなかった」
澄乃は冷えきった指先を握り込んだ。
気付かなかったわけではない。
気付かない振りをしていたのだ。
佐和が何も言わないのをいいことに、後回しにして。
石灯籠についた霜が朝陽で溶け、きらりと光る。
それを綺麗だと思ってしまった自分を、澄乃は叱りつけた。
何を暢気なこと言ってるの。
いつまでも女学生みたいな、ふわふわした心持ちでいるからいけないのよ。
なんとかしないと。
わたしが……わたしがなんとかしないと、取りかえしのつかないことになってしまう──。
「お嬢様」
背後から声をかけられて、澄乃はびくっとした。
振り向くと、座敷の入り口に佐和が立っていた。
紺絣の綿入れに白い前掛けを着けた老女中は、心配そうに澄乃を窺いながら摺り足で静かに歩み寄った。
「このような火の気のないところにおられては、お風邪を召します」
「……朝の空気を吸いたくなったの」
「でしたら何もわざわざ離れまでお越しになられずとも」
佐和は苦笑して、澄乃の隣に折り目正しく正座した。
並んで庭を眺める。
雀がチチと鳴いた。
「奥様も、朝の光がたいそうお好きでございました」
佐和が独りごちるように呟いた。
「そうだったかしら」
「雪が降った翌朝など、青空と庭の雪景色を嬉しそうに眺めておいででしたよ。火鉢で手をあぶりながら」
ふふっ、と澄乃は笑った。
「わたしは、その火鉢でお餅を焼いてもらうのが好きだったわ」
「さようでございました」
佐和もくすくす笑う。
またしばらく黙って庭を眺める。
庭に目を向けたまま、佐和はぽつりと尋ねた。
「昨日のお話を、考えていらっしゃるのですね」
澄乃もまた庭を眺めたまま、かすかに眉を寄せる。
「知っていたの」
「旦那様から、お伺いしました。婿入りの、ご縁談だと」
澄乃は溜め息をついた。
息が白い。
「佐和は、どう思った? あの、橘少佐という方を」
「少なくとも、横柄ではございませんでした」
佐和はまじめくさった口調で答えた。
「お引き取りになるとき、玄関先で外套を着せて差し上げると、わたくしに向き直ってきびきびと礼を言われましたから。お育ちの良い方とお見受けいたしました」
「栃木のほうの名家で、元は武家だったらしいわ」
「それで納得いたしました」
佐和は頷いた。
澄乃は庭をぐるりと見回し、振り向いて座敷を眺めた。
「わたし、この家が好きよ。たくさんの楽しい思い出がある。それを失いたくない」
「はい」
「だから──仕方がないのかしら」
「仕方がない、とは思いません」
きっぱり言われ、澄乃は目を瞠った。
「思い出は、形のないものでございます。たとえば、奥様の優しいお声のように。確かによすがは必要でしょう。ですが、それほど大きなものである必要はないと、わたくしは思います」
澄乃は意外な心持ちで、老女中をまじまじと見つめた。
佐和は気恥ずかしげに苦笑した。
「お嬢様、わたくし冷えてしまいました。そろそろ母屋へ戻りませんか」
「ええ、そうね。ごめんなさい」
澄乃は急いで身を起こした。
「雨戸はもう少し開けておきましょう。後で閉めに参ります」
佐和の言葉に頷き、澄乃は離れの戸口へ向かった。
渡り廊下から見えた地面では、霜柱が朝陽に溶け始めていた。
「そうそう、矮鶏が卵を産んでいましたよ」
「いいわね。お父様に目玉焼きを出してさしあげて。お好きだから」
「かしこまりました」
佐和を従えて渡り廊下を歩きながら、澄乃は射し込む朝の光に目を細めた。
ふと、橘少佐が別れ際に残した言葉が耳をよぎる。
『また、参ります』
底知れぬ黒瞳で澄乃を見つめ、濁りのない深い声音であの男はそう告げた。
いつ来るつもりなのだろう。
いつまでに決めなくてはならないのだろう。
胸の底がひりつくような焦燥に、澄乃は唇をきゅっと引き結んだ。
そんな前途洋々たる人物が、何故わざわざ多額の借金を背負い込んでまで没落華族に婿入りしたがるのか。
一条伯爵という称号に、よほどの思い入れでもあるのだろうか。
しかし、父が昔多少の口利きをしたという以外に、なんの縁もないはずだ。
絶対、何か裏がある。
あの男は何か企んでいるのだ。
きっと、よからぬことを。
そうだとしても、逃げ道はない。
確かに父は言った。断ってもよい、と。
だが、断れば屋敷の差し押さえは不可避となる。
この寒空に放り出されたら、体調のよくない父と年老いた佐和を抱えて生きていくなんて、どう考えても無理だ。
頼れる親類はいない。
もともと親族が少なかった上に、数年前に大流行した西班牙風邪で親類縁者が次々と亡くなり、気がつけば一条家は断絶寸前になっていた。
時期的に、年内の注文はもう取れない。
正月明けまでに澄乃が用意できる金額では借財の一割も返せないのは明らかだし、父もごく限られた人脈をすでに使い果たしたようだ。
「……佐和のお給金も、払ってなかった」
澄乃は冷えきった指先を握り込んだ。
気付かなかったわけではない。
気付かない振りをしていたのだ。
佐和が何も言わないのをいいことに、後回しにして。
石灯籠についた霜が朝陽で溶け、きらりと光る。
それを綺麗だと思ってしまった自分を、澄乃は叱りつけた。
何を暢気なこと言ってるの。
いつまでも女学生みたいな、ふわふわした心持ちでいるからいけないのよ。
なんとかしないと。
わたしが……わたしがなんとかしないと、取りかえしのつかないことになってしまう──。
「お嬢様」
背後から声をかけられて、澄乃はびくっとした。
振り向くと、座敷の入り口に佐和が立っていた。
紺絣の綿入れに白い前掛けを着けた老女中は、心配そうに澄乃を窺いながら摺り足で静かに歩み寄った。
「このような火の気のないところにおられては、お風邪を召します」
「……朝の空気を吸いたくなったの」
「でしたら何もわざわざ離れまでお越しになられずとも」
佐和は苦笑して、澄乃の隣に折り目正しく正座した。
並んで庭を眺める。
雀がチチと鳴いた。
「奥様も、朝の光がたいそうお好きでございました」
佐和が独りごちるように呟いた。
「そうだったかしら」
「雪が降った翌朝など、青空と庭の雪景色を嬉しそうに眺めておいででしたよ。火鉢で手をあぶりながら」
ふふっ、と澄乃は笑った。
「わたしは、その火鉢でお餅を焼いてもらうのが好きだったわ」
「さようでございました」
佐和もくすくす笑う。
またしばらく黙って庭を眺める。
庭に目を向けたまま、佐和はぽつりと尋ねた。
「昨日のお話を、考えていらっしゃるのですね」
澄乃もまた庭を眺めたまま、かすかに眉を寄せる。
「知っていたの」
「旦那様から、お伺いしました。婿入りの、ご縁談だと」
澄乃は溜め息をついた。
息が白い。
「佐和は、どう思った? あの、橘少佐という方を」
「少なくとも、横柄ではございませんでした」
佐和はまじめくさった口調で答えた。
「お引き取りになるとき、玄関先で外套を着せて差し上げると、わたくしに向き直ってきびきびと礼を言われましたから。お育ちの良い方とお見受けいたしました」
「栃木のほうの名家で、元は武家だったらしいわ」
「それで納得いたしました」
佐和は頷いた。
澄乃は庭をぐるりと見回し、振り向いて座敷を眺めた。
「わたし、この家が好きよ。たくさんの楽しい思い出がある。それを失いたくない」
「はい」
「だから──仕方がないのかしら」
「仕方がない、とは思いません」
きっぱり言われ、澄乃は目を瞠った。
「思い出は、形のないものでございます。たとえば、奥様の優しいお声のように。確かによすがは必要でしょう。ですが、それほど大きなものである必要はないと、わたくしは思います」
澄乃は意外な心持ちで、老女中をまじまじと見つめた。
佐和は気恥ずかしげに苦笑した。
「お嬢様、わたくし冷えてしまいました。そろそろ母屋へ戻りませんか」
「ええ、そうね。ごめんなさい」
澄乃は急いで身を起こした。
「雨戸はもう少し開けておきましょう。後で閉めに参ります」
佐和の言葉に頷き、澄乃は離れの戸口へ向かった。
渡り廊下から見えた地面では、霜柱が朝陽に溶け始めていた。
「そうそう、矮鶏が卵を産んでいましたよ」
「いいわね。お父様に目玉焼きを出してさしあげて。お好きだから」
「かしこまりました」
佐和を従えて渡り廊下を歩きながら、澄乃は射し込む朝の光に目を細めた。
ふと、橘少佐が別れ際に残した言葉が耳をよぎる。
『また、参ります』
底知れぬ黒瞳で澄乃を見つめ、濁りのない深い声音であの男はそう告げた。
いつ来るつもりなのだろう。
いつまでに決めなくてはならないのだろう。
胸の底がひりつくような焦燥に、澄乃は唇をきゅっと引き結んだ。
