大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

「はい?」

 面食らって澄乃は目を瞬いた。

 意味がわからない。

 見ず知らずの軍人が、借金の肩代わりを申し出る?

 父を見ると、眉間のしわをさらに深めて、何もない小卓を睨んでいる。

 澄乃は書棚の前に佇んでいる軍人に目を移した。

「あの、橘様」

「なんでしょう」

「橘様と我が家には、何かご縁でもございましたか?」

「ありません」

 きっぱりと青年将校は答えた。

 すがすがしい口調に、澄乃はますます困惑する。

「では何故──」

「これから縁ができるからです」

「は?」

 思わず目を丸くすると、篤之がごほんと咳払いをした。

「橘少佐は我が家に婿入りしたいとお申し出なのだ」

 澄乃はぽかんとした。

 婿入り。

 誰の、お婿さん?

 決まっている。

 自分の──だ。

 澄乃は思わず腰を浮かしかけ、すぐにすとんと下ろした。

 別に、驚くことではない。

 一条家には澄乃の他に子がいないのだ。

 つまり、跡取りの男子がいない。

 ゆえに、一条伯爵家を存続させるためには、澄乃が婿を取るほかない。

 ずっと前からわかっていたことだ。

 いつかはそんな話が来る、と。

 同時に、来るわけないと決めつけてもいた。

 五年前の父の落馬事故をきっかけに、一条家は急速に没落した。

 それこそ坂を転げるように。

 いや、それよりももっと前、母が亡くなった頃から少しずつ家は傾き始めていた。

 誰もが薄々と察しながら、誰も口にしなかったその事実が、父の事故によって不可避の現実となった。

「──突然言われて驚くのはわかる」

 父がしかつめらしく言う。

 澄乃は黙っていた。

 父の意向に逆らうつもりはない。

 だが、あまりに突然で──しかも非常識だった。

 仲人を立てることも、見合いの席を設けることもなく、いきなり本人がやって来るなんて。

 そんなの、ありえない──。

「澄乃」

 父が、機嫌を取るような声音で呼んだ。

 その声音にカッとなる。

 父が自分で決めて、命じたのなら、まだよかった。

 だけど、違うのだとわかってしまった。

 否も応もなく、父は受け入れざるを得なかったのだ。

 そして、そんなふうに父を追い詰めたこの見知らぬ軍人に、澄乃は強い反発と敵意を覚えた。

 澄乃は膝の上で、拳を握りしめた。

 心を懸命に落ち着かせ、キッと顔を上げる。

 すぐに目が合った。

 彼はずっとこちらを見ていたのだ。

 きつく握った拳を見られた気がして、澄乃は反射的に袖を引き寄せた。

「──お伺いしても、よろしいでしょうか」

「なんなりと」

 橘少佐はそっけなく答えた。

 慇懃無礼とはこのことかと、さらに腹立たしくなるのを必死に押さえ込む。

「縁もゆかりもない家に婿入りして、借財の肩代わりまでしようと仰る、その理由がわたくしには呑み込めません。この一条の名が、橘様にはそれほどご入り用なのですか」

 朔也は少しだけ考え込むように眉をひそめ、浅く頷いた。

「そのように思っていただいてかまいません」