自分が世間知らずだという自覚はある。兵站実務を担っている朔也の助言には確かな経験による裏打ちがあるはずだ。
真摯な顔つきに気圧されて頷くと、怯えさせたと思ったのか、朔也は表情をやわらげた。
「あなたの仕事の元になるものを、迂闊に他人に渡すべきではない、ということです。大切なものなのですから」
「はい……」
「一度渡してしまえば、後で返されたとしても、こっそり写し取られているかもしれない。口約束は相手の都合のいいように解釈されてしまうかもしれません。これまでずっと取り引きのあった呉服店なら問題はないでしょうが、瀬田に関しては、信用できる人間だと自信を持って太鼓判を押すことができません」
「わ、わかりました……」
「怖がらせるつもりはありませんが、くれぐれも用心してほしいので、あえて強く言いました」
「わかっています」
澄乃はこくりと頷いた。朔也は心配してくれているのだ。澄乃が危なくないように、気を配ってくれている。階段の上に電灯を取り付けたように。
「……お話しして、よかったです」
「話してくれて、嬉しいです」
朔也は仄かな笑みを浮かべた。
「何を持っていく予定ですか?」
「まだはっきり決めていませんが、自分用に作った半襟や手巾、それに下絵を何枚か……」
「では、書類挟みがあったほうが便利ですね。明日までに探しておきましょう」
「ありがとうございます。日にちが決まったらお伝えします」
「楽しんできてください。さんざん脅しておいて言うのも何ですが、ご婦人がたには評判の場所らしいですから」
「朔也さんは行ったことありませんの?」
「ないですね。特に用もありませんし」
男性用品も売っているのだろうかと澄乃は考えた。舶来の素敵なネクタイとか、あるかしら……などと考えてしまい、澄乃はそわそわと腰を上げた。
「どうもありがとうございました。読書のお邪魔をしてごめんなさい」
「お役に立てればさいわいです」
朔也は怜悧な目許をやわらげ、澄乃を戸口まで送ってくれた。
「では、失礼いたします」
軽く頭を下げ、部屋を出ようとすると、ふいに名を呼ばれた。
「澄乃さん」
「はい」
何気なく振り向く。朔也が見つめていた。黒曜石のような瞳で、じっと見つめられ、鼓動が跳ね上がる。
何か、と問えない。でも、目を逸らせない。
朔也の唇が、わずかに動いた。
だが、言葉が発せられることはなく──。
一旦閉じた口の端に、彼は静かな笑みを浮かべた。
「おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
もう一度頭を下げ、廊下を歩きだす。
扉を閉ざす音はしなかった。
澄乃が自室の扉を開け、また閉めるまで、朔也がずっと見送っていることを、背中で感じていた。
振り向いたら、目が合ったのだろうか。
目が合っていたら、どうなったのだろう……。
閉まった扉に背を預け、澄乃は小さな溜め息を洩らした。
真摯な顔つきに気圧されて頷くと、怯えさせたと思ったのか、朔也は表情をやわらげた。
「あなたの仕事の元になるものを、迂闊に他人に渡すべきではない、ということです。大切なものなのですから」
「はい……」
「一度渡してしまえば、後で返されたとしても、こっそり写し取られているかもしれない。口約束は相手の都合のいいように解釈されてしまうかもしれません。これまでずっと取り引きのあった呉服店なら問題はないでしょうが、瀬田に関しては、信用できる人間だと自信を持って太鼓判を押すことができません」
「わ、わかりました……」
「怖がらせるつもりはありませんが、くれぐれも用心してほしいので、あえて強く言いました」
「わかっています」
澄乃はこくりと頷いた。朔也は心配してくれているのだ。澄乃が危なくないように、気を配ってくれている。階段の上に電灯を取り付けたように。
「……お話しして、よかったです」
「話してくれて、嬉しいです」
朔也は仄かな笑みを浮かべた。
「何を持っていく予定ですか?」
「まだはっきり決めていませんが、自分用に作った半襟や手巾、それに下絵を何枚か……」
「では、書類挟みがあったほうが便利ですね。明日までに探しておきましょう」
「ありがとうございます。日にちが決まったらお伝えします」
「楽しんできてください。さんざん脅しておいて言うのも何ですが、ご婦人がたには評判の場所らしいですから」
「朔也さんは行ったことありませんの?」
「ないですね。特に用もありませんし」
男性用品も売っているのだろうかと澄乃は考えた。舶来の素敵なネクタイとか、あるかしら……などと考えてしまい、澄乃はそわそわと腰を上げた。
「どうもありがとうございました。読書のお邪魔をしてごめんなさい」
「お役に立てればさいわいです」
朔也は怜悧な目許をやわらげ、澄乃を戸口まで送ってくれた。
「では、失礼いたします」
軽く頭を下げ、部屋を出ようとすると、ふいに名を呼ばれた。
「澄乃さん」
「はい」
何気なく振り向く。朔也が見つめていた。黒曜石のような瞳で、じっと見つめられ、鼓動が跳ね上がる。
何か、と問えない。でも、目を逸らせない。
朔也の唇が、わずかに動いた。
だが、言葉が発せられることはなく──。
一旦閉じた口の端に、彼は静かな笑みを浮かべた。
「おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
もう一度頭を下げ、廊下を歩きだす。
扉を閉ざす音はしなかった。
澄乃が自室の扉を開け、また閉めるまで、朔也がずっと見送っていることを、背中で感じていた。
振り向いたら、目が合ったのだろうか。
目が合っていたら、どうなったのだろう……。
閉まった扉に背を預け、澄乃は小さな溜め息を洩らした。
