大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

「命令次第で、どこへでも行かねばなりませんので」

 彼はいつもの淡々とした口調に戻ってそう言うと、暖炉の前に椅子をふたつ並べた。

「どうぞ、座ってください」

 会釈して腰を下ろすと、朔也は机の洋燈(らんぷ)の火を小さくして戻ってきた。机の上には洋書らしき分厚い本が広げられ、紙と万年筆が傍らに置かれている。

「本を読んでいらしたの?」

「ええ。ノヴァーリスという独逸(ドイツ)の作家の、『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』という小説です」

「どんなお話?」

「ある青年が夢の中で青い花を見て、その面影に導かれるように旅をする、というような話です。……何か、ご相談があるとか?」

「あ、はい」

 青い花とはどんな花だろうかと思い浮かべていた澄乃は、我に返って名刺を持ち直した。

「……今日の午後、篠田夫人がお見えになりました。わたしが仕立てた半襟と手巾、帝劇でたいそう評判だったそうです」

「それはよかったですね」

 朔也が目を細め、澄乃は頷いた。

「その後のお茶の席で、錦華屋百貨店の方とお話しされたそうなんです。その方が、わたしの刺繍に興味を持ってくださったそうで……」

 思い切って名刺を差し出すと、受け取って一瞥した朔也が、かすかに目を瞠った。

 なんとなく不安を感じ、少し早口になって説明を続ける。

「わたしの作品を見せてもらえないかと、篠田様に仰ったそうなのです。美術工芸の売場も案内したい、と。篠田様はもうすっかり乗り気で……一緒に行こうと誘われました。日取りはわたしが決めていいそうですが……」

「──瀬田利一」

 朔也は考え込むように呟いた。眉根の辺りがやや険しくなっている。不安が増した。

「ご存じの方ですか……?」

「職務の上で、少しばかり」

 朔也は名刺から目を上げ、澄乃を見つめた。

「行きたいですか?」

 静かに問われ、こくりと頷く。

「行ってみたいと、思います」

「それなら、行かれるのがいいでしょう」

 こともなげに言われ、澄乃は目を瞬いた。

「いいのですか?」

 思わず訊き返すと、朔也は苦笑した。

「百貨店へ出かけるのに私の許しは要りません。行きたいところへ行かれればいい。ただ、危険のありそうな場所へ行かれるときだけは、私を同行させてください」

 もちろん百貨店は危険な場所などではない。

「……何か、気になることでも?」

 穏やかに問われ、澄乃はためらいがちに頷いた。

「見物するだけなら、いいのですけど……。わたしの刺繍が見たいと言われたので」

「つまり、仕事になるかもしれない、と?」

「わかりませんが、もしそうなった場合、これまでのように知り合いから注文をいただくのとは勝手が違います。それが少し、気になって……」

 朔也はしばらく黙っていた。

 名刺に一度だけ視線を落とし、それから静かに言った。