夕餉と片づけを終えて自室に引き上げた澄乃は、立ったまま机を見下ろした。
名刺が一枚、ぽつんと置かれている。
株式会社 錦華屋呉服店
常務取締役 瀬田利一
糸箱を取り出し、中から折り畳んだチラシをつまみ出す。
広げると、折り皺の部分がずいぶん白っぽくなっていた。
色刷りの紙に描かれた、洋傘を差した着物姿の女性。反対側の手に花模様が刺繍された舶来品の手巾を持っている。
これまではその手巾ばかりに目が行っていたが、今は飾り文字で記された『錦華屋百貨店』のほうが気になる。
胸の奥でずっとくすぶっていた、舶来品への対抗心。
流行の最先端を売り物にしている店の人間が、自分に目を向けた。
そう考えると、どうしても浮き足立つような落ち着かない気分になってしまう。
もう一度、名刺を見る。
真新しい名刺と、折り皺だらけのチラシ。
どんどん進んでいく世界と、取り残された自分。
そんな対比に見えてしまう。
ふと、扉の向こうから、遠ざかっていく静かなスリッパの足音がかすかに聞こえてきた。朔也だ。
夕食後、書斎で篤之と碁を打ったり、ひとしきり時局の話などをしてから自室に引き上げるのが、すでに習慣になっていた。
今や父はすっかり朔也を気に入っている。英語や仏蘭西語を交えながら時局を論じられるのが嬉しいらしく、普段の表情も以前よりずっと生き生きしている。
(……そうだわ。朔也さんにお話ししたら、きっと良い助言をいただける)
澄乃は名刺を手に部屋を出た。
二階の廊下は階段近くに小さな電灯がひとつ灯っている。以前は洋燈を持ち歩いて移動していたが、階段から落ちては危ないと、朔也が電灯をひとつ取りつけさせたのだ。
端にある自室から、電灯の下を通って朔也が使っている洋間へ行くと、扉の下から明かりが洩れていた。もちろん、就寝にはまだ早い時間帯だが、少しホッとして澄乃はこつこつと扉を敲いた。
「はい」
淡々とした声が返ってくる。
「澄乃です。少し、ご相談したいことがあって……」
今度は返事がない。不審を覚えた瞬間、扉が開いた。
顔を出した朔也はわずかに目を瞠り、しばし澄乃を見つめた。
「す、すみません。お邪魔でしたか」
「──いえ。どうぞ」
一歩引いて促され、澄乃は会釈して室内に入った。
暖炉に火は入っていたが、ほとんど燠になっていて炎は上がっていない。澄乃の視線をたどった朔也は、やや慌てた様子で薪を一本くべ、火掻き棒で燠を掻き起こした。
「すみません。寒いですね」
「あ、大丈夫です」
急いで制すと、朔也は少しはにかんだような顔になった。
「快適さに慣れすぎないよう、気をつけています」
「軍人だから……?」
名刺が一枚、ぽつんと置かれている。
株式会社 錦華屋呉服店
常務取締役 瀬田利一
糸箱を取り出し、中から折り畳んだチラシをつまみ出す。
広げると、折り皺の部分がずいぶん白っぽくなっていた。
色刷りの紙に描かれた、洋傘を差した着物姿の女性。反対側の手に花模様が刺繍された舶来品の手巾を持っている。
これまではその手巾ばかりに目が行っていたが、今は飾り文字で記された『錦華屋百貨店』のほうが気になる。
胸の奥でずっとくすぶっていた、舶来品への対抗心。
流行の最先端を売り物にしている店の人間が、自分に目を向けた。
そう考えると、どうしても浮き足立つような落ち着かない気分になってしまう。
もう一度、名刺を見る。
真新しい名刺と、折り皺だらけのチラシ。
どんどん進んでいく世界と、取り残された自分。
そんな対比に見えてしまう。
ふと、扉の向こうから、遠ざかっていく静かなスリッパの足音がかすかに聞こえてきた。朔也だ。
夕食後、書斎で篤之と碁を打ったり、ひとしきり時局の話などをしてから自室に引き上げるのが、すでに習慣になっていた。
今や父はすっかり朔也を気に入っている。英語や仏蘭西語を交えながら時局を論じられるのが嬉しいらしく、普段の表情も以前よりずっと生き生きしている。
(……そうだわ。朔也さんにお話ししたら、きっと良い助言をいただける)
澄乃は名刺を手に部屋を出た。
二階の廊下は階段近くに小さな電灯がひとつ灯っている。以前は洋燈を持ち歩いて移動していたが、階段から落ちては危ないと、朔也が電灯をひとつ取りつけさせたのだ。
端にある自室から、電灯の下を通って朔也が使っている洋間へ行くと、扉の下から明かりが洩れていた。もちろん、就寝にはまだ早い時間帯だが、少しホッとして澄乃はこつこつと扉を敲いた。
「はい」
淡々とした声が返ってくる。
「澄乃です。少し、ご相談したいことがあって……」
今度は返事がない。不審を覚えた瞬間、扉が開いた。
顔を出した朔也はわずかに目を瞠り、しばし澄乃を見つめた。
「す、すみません。お邪魔でしたか」
「──いえ。どうぞ」
一歩引いて促され、澄乃は会釈して室内に入った。
暖炉に火は入っていたが、ほとんど燠になっていて炎は上がっていない。澄乃の視線をたどった朔也は、やや慌てた様子で薪を一本くべ、火掻き棒で燠を掻き起こした。
「すみません。寒いですね」
「あ、大丈夫です」
急いで制すと、朔也は少しはにかんだような顔になった。
「快適さに慣れすぎないよう、気をつけています」
「軍人だから……?」
