大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

 父の書斎の扉の前で立ち止まり、澄乃は一呼吸して息を整えた。

 扉越しに声は聞こえない。

 ぐずぐずしていても仕方がないので、澄乃は思い切って扉を(たた)いた。

 父の声がすぐに返ってくる。

「入りなさい」

 真鍮の把手を回し、慎重に扉を開けた。

 天井から擦り硝子(ガラス)越しの電灯が室内を照らしている。

 他の部屋の電球は節約のために外してしまったが、父の書斎だけは来客を迎えることを考えて残してある。

 書き物机では手許を照らすための石油洋燈(らんぷ)に火が灯されていたが、父は応接用の革張りソファに座り、正面に立てたステッキの握りに両手を載せていた。

 入ってきた澄乃に向けられた目には、動揺と迷いが浮かんでいるように思えた。

 父の背後には、ぎっしりと本の詰まった書棚を背に、ひとりの男性が立っていた。

 年齢はまだ三十路には達していないように思える。

 青みを帯びた茶褐色の軍服を隙なく着こなした、引き締まった体躯の長身の男だ。

 ゆうに六尺(約一八〇センチ)以上はあるだろう。

 高めの詰襟と、両肩に縫いつけられた緋色と金の肩章が、いかにも将校らしい。

 脱いだ軍帽を白手袋の手に持ち、左腰には軍刀を()いている。

 磨かれた革の刀帯と金具の輝きが古びた書斎にはひどくそぐわなくて、どこか不吉なものに思えた。

 切れ長の目が澄乃に向けられる。

 怜悧なまなざしだった。

 端正な顔立ちをしているが、そこに特別な感情は窺えない。

「澄乃、こちらは(たちばな)少佐だ」

 父の篤之(あつゆき)が堅苦しい声で紹介すると、軍人は静かに一歩前に出て一礼した。

「橘朔也(さくや)と申します。陸軍省兵站局に勤務しております」

 澄乃は彼に向き直ると頭を下げた。

「一条澄乃でございます」

 篤之は咳払いし、軽く手を振った。

「まぁ、座りなさい」

 澄乃はためらった。

 客が立っているのに座っていいのだろうか。

 橘少佐は無表情のままだ。

 ふたたび父がやや気難しげに促したので、澄乃はやむなく小卓を挟んで父の向かい側に腰を下ろした。

 父はしばらく眉間にしわを寄せ、うつむき加減に黙り込んでいたが、意を決したようにひとつ息をついて顔を上げた。

「実は、な。こちらの橘少佐が、我が家の借財を肩代わりしてくださることになった」