澄乃が目を覚ましたのは、白々と夜が明け初める頃だった。
漆喰塗りの天井にうっすら広がる灰色の染みを見上げ、しばらく寝台の中でぼんやりする。
昨日の夕餉はいつも以上に静かだった。
静かというより静まり返っていた。
会話は一切なく、食器の触れ合う音も普段よりいっそう控え目で、自分の咀嚼音さえ気まずく思えた。
就寝の挨拶をしたときも、いつものように洋燈の灯で読書をしていた父は、いつもと同じく肩ごしに振り向いて『おやすみ』と静かに言っただけだった。
何も変わっていないのに、何もかも変わってしまったように思えて、数秒立ちすくんでしまう。
かすかに眉をひそめた父が口を開きかける。
それと同時に澄乃は逃げるように一礼し、急いで扉を閉めた。
父の言葉を遮ってしまった悔いを振り捨てるように足早に階段を上り、寝室へ急ぐ。
湯に浸かって温まった身体が冷えないうちに毛布にくるまったのに、身体の芯に冷たい塊があるようで、なかなか寝つけなかった。
澄乃は溜め息をつき、手の甲で額をこすった。
(あれは、本当の出来事だったの……?)
夕暮れ時の書斎。
見知らぬ若い将校。
切れ長の硬質な目で、じっと自分を見つめていた。
感情が窺い知れないのに、どこか深いところに炎を秘めているかのような、不可思議な圧をふくんだまなざしだった。
橘朔也。
陸軍の少佐。
借財をすべて肩代わりする代わりに、彼は一条家への婿入りを望んだ。
何度思い返しても、それはあまりに奇妙な申し出だった。
救われるのは一条家だけで、彼が得るものなどほとんどない。
莫大な借財と、すでに政財界になんの影響力も持たない伯爵位が釣り合うわけなどないではないか。
父は、彼が澄乃を見初めたのだと言う。
そんなはずはない。
そんなのありえない。
だって、会ったこともないのだもの。
(……何を、企んでいるの)
わからない。
いくら考えても、納得できる答えは出てこなかった。
澄乃は物憂げに身を起こすと寝台から下りた。
澄乃は地味な袷の小紋に着替え、履き古した臙脂色の別珍足袋を履いた。
肩には古びた毛糸のショールをかける。
昔、母が亡くなる直前に編んでくれたものだ。
あの頃は大きいくらいだったのに、今では少し寸足らずになって、色も褪せてしまった。
着替えを済ませ、静かに階段を下りて冷え冷えとした廊下を歩きだす。
台所と逆の方向に進むと、上部に色硝子の嵌められた白い扉があった。
澄乃はペンキの剥げから目を逸らし、掛け金を外した。
くすんだ真鍮のノブはすごく冷たかった。
吹き曝しの渡り廊下に出て、下駄箱から取り出した草履を履く。
冬の早朝の冷気にたちまち全身を包まれて、澄乃はぶるっと身震いした。
十二月も下旬となれば、夜明けの空気は刺すように冷たい。
何度も洗濯して薄くなった別珍足袋では草履の底から伝わる冷たさまでは防げない。
身を縮め、白い息を吐きながら澄乃は急いで離れへ向かった。
母屋から渡り廊下でつながる数寄屋風のこぢんまりとした建物は、母が輿入れしてきた時に父が建てたものだ。
母は公家の出身だった。
庭に面して濡れ縁つきの八畳ほどの座敷、奥には小さな茶室と水屋がある。
母はよくここで日中を過ごし、時には父が茶を点てたりしたものだ。
今では炉に炭が入れられなくなって久しく、水屋の棚には薄く埃が積もっている。
暖かい季節にはよくここの座敷で、仕事ではない刺繍や図案を考えるが、冬はほぼ閉め切りだ。
雨戸に手をかけ、ひとつずつ開けていく。
重くなった木の戸が、ぎぎっと軋んだ。
昔はもっとなめらかに開いたし、面皮柱も、網代の天井も、ずっとやわらかに光っていた。
すべての雨戸を開け放つと、澄乃は冷えきった座敷の端に座り、濡れ縁ごしに荒れた庭を眺めた。
透明な冬の朝陽が寒々と庭を照らしている。
飛石の隙間から伸びた雑草が枯れたまま残り、半ば霜柱に埋もれている。
池は水を抜かれて久しく、うずたかく落ち葉が堆積していた。
庭木の枝は伸び放題で、かつては風流だった築山もほとんど枯れ草に覆われて土饅頭のようだ。
澄乃は枝垂れ梅の近くにある石灯籠を眺めた。
だいぶ苔むして、少し傾いてしまったが、春になれば梅が散りこぼれ、菫が群がり咲く。
ふっ、と頭の隅をおぼろな影がかすめた気がした。
(……そういえば、子どもの頃、端裂に菫の刺繍を練習したことがあったっけ)
あれはどうしたのだろう。
きっと、うまくできなくて捨ててしまったのだと澄乃は苦い笑みを洩らしてかぶりを振った。
振り向いて、座敷を眺めた。
在りし日の母の姿が、眼裏に優しく浮かび上がる。
藤色のお召しを品よく着こなし、刺繍台に向かっていた母。
佐和が薬湯を持ってくると、やっと手を止める。
すぐにまた針を持って、刺繍台へ向かう。
繍っているのは留袖に入れる豪華な刺繍だ。
傍らに座って熱心に手許を覗き込んでいると、母は微笑んで、糸箱から何本かの束を取り出して見せる。
「澄乃はどの緑が好き?」
それぞれの束を日光にかざすと、似通った緑色が全然違う色に見えた。
光の当たり具合で色はまったく違って見えることを、初めて知った。
母が亡くなると、離れに来るのは澄乃だけになった。
父はめったに足を踏み入れなくなり、気付けば庭師も来なくなっていた。
晩秋に抜かれた池の水は、春になってもふたたび溜められることはなかった。
庭は次第に荒れていったが、それでも澄乃はこの離れが好きだった。
母との思い出もあるし、母屋の洋館で注文品の刺繍を繍うのとは気持ちが違う。
だが、近頃は依頼された仕事をこなすのに精一杯で、自分のためだけに繍う時間などほとんど取れない。
座敷の隅にぽつんと置かれた白布をかぶせた刺繍台を眺め、澄乃は橘朔也という軍人の顔をぼんやり思い浮かべた。
すらりとした長身、端整な顔だちと切れ長の目は、それだけで人目を惹くだろう。
あの若さで少佐なら、よほどの功績もあるに違いない。
漆喰塗りの天井にうっすら広がる灰色の染みを見上げ、しばらく寝台の中でぼんやりする。
昨日の夕餉はいつも以上に静かだった。
静かというより静まり返っていた。
会話は一切なく、食器の触れ合う音も普段よりいっそう控え目で、自分の咀嚼音さえ気まずく思えた。
就寝の挨拶をしたときも、いつものように洋燈の灯で読書をしていた父は、いつもと同じく肩ごしに振り向いて『おやすみ』と静かに言っただけだった。
何も変わっていないのに、何もかも変わってしまったように思えて、数秒立ちすくんでしまう。
かすかに眉をひそめた父が口を開きかける。
それと同時に澄乃は逃げるように一礼し、急いで扉を閉めた。
父の言葉を遮ってしまった悔いを振り捨てるように足早に階段を上り、寝室へ急ぐ。
湯に浸かって温まった身体が冷えないうちに毛布にくるまったのに、身体の芯に冷たい塊があるようで、なかなか寝つけなかった。
澄乃は溜め息をつき、手の甲で額をこすった。
(あれは、本当の出来事だったの……?)
夕暮れ時の書斎。
見知らぬ若い将校。
切れ長の硬質な目で、じっと自分を見つめていた。
感情が窺い知れないのに、どこか深いところに炎を秘めているかのような、不可思議な圧をふくんだまなざしだった。
橘朔也。
陸軍の少佐。
借財をすべて肩代わりする代わりに、彼は一条家への婿入りを望んだ。
何度思い返しても、それはあまりに奇妙な申し出だった。
救われるのは一条家だけで、彼が得るものなどほとんどない。
莫大な借財と、すでに政財界になんの影響力も持たない伯爵位が釣り合うわけなどないではないか。
父は、彼が澄乃を見初めたのだと言う。
そんなはずはない。
そんなのありえない。
だって、会ったこともないのだもの。
(……何を、企んでいるの)
わからない。
いくら考えても、納得できる答えは出てこなかった。
澄乃は物憂げに身を起こすと寝台から下りた。
澄乃は地味な袷の小紋に着替え、履き古した臙脂色の別珍足袋を履いた。
肩には古びた毛糸のショールをかける。
昔、母が亡くなる直前に編んでくれたものだ。
あの頃は大きいくらいだったのに、今では少し寸足らずになって、色も褪せてしまった。
着替えを済ませ、静かに階段を下りて冷え冷えとした廊下を歩きだす。
台所と逆の方向に進むと、上部に色硝子の嵌められた白い扉があった。
澄乃はペンキの剥げから目を逸らし、掛け金を外した。
くすんだ真鍮のノブはすごく冷たかった。
吹き曝しの渡り廊下に出て、下駄箱から取り出した草履を履く。
冬の早朝の冷気にたちまち全身を包まれて、澄乃はぶるっと身震いした。
十二月も下旬となれば、夜明けの空気は刺すように冷たい。
何度も洗濯して薄くなった別珍足袋では草履の底から伝わる冷たさまでは防げない。
身を縮め、白い息を吐きながら澄乃は急いで離れへ向かった。
母屋から渡り廊下でつながる数寄屋風のこぢんまりとした建物は、母が輿入れしてきた時に父が建てたものだ。
母は公家の出身だった。
庭に面して濡れ縁つきの八畳ほどの座敷、奥には小さな茶室と水屋がある。
母はよくここで日中を過ごし、時には父が茶を点てたりしたものだ。
今では炉に炭が入れられなくなって久しく、水屋の棚には薄く埃が積もっている。
暖かい季節にはよくここの座敷で、仕事ではない刺繍や図案を考えるが、冬はほぼ閉め切りだ。
雨戸に手をかけ、ひとつずつ開けていく。
重くなった木の戸が、ぎぎっと軋んだ。
昔はもっとなめらかに開いたし、面皮柱も、網代の天井も、ずっとやわらかに光っていた。
すべての雨戸を開け放つと、澄乃は冷えきった座敷の端に座り、濡れ縁ごしに荒れた庭を眺めた。
透明な冬の朝陽が寒々と庭を照らしている。
飛石の隙間から伸びた雑草が枯れたまま残り、半ば霜柱に埋もれている。
池は水を抜かれて久しく、うずたかく落ち葉が堆積していた。
庭木の枝は伸び放題で、かつては風流だった築山もほとんど枯れ草に覆われて土饅頭のようだ。
澄乃は枝垂れ梅の近くにある石灯籠を眺めた。
だいぶ苔むして、少し傾いてしまったが、春になれば梅が散りこぼれ、菫が群がり咲く。
ふっ、と頭の隅をおぼろな影がかすめた気がした。
(……そういえば、子どもの頃、端裂に菫の刺繍を練習したことがあったっけ)
あれはどうしたのだろう。
きっと、うまくできなくて捨ててしまったのだと澄乃は苦い笑みを洩らしてかぶりを振った。
振り向いて、座敷を眺めた。
在りし日の母の姿が、眼裏に優しく浮かび上がる。
藤色のお召しを品よく着こなし、刺繍台に向かっていた母。
佐和が薬湯を持ってくると、やっと手を止める。
すぐにまた針を持って、刺繍台へ向かう。
繍っているのは留袖に入れる豪華な刺繍だ。
傍らに座って熱心に手許を覗き込んでいると、母は微笑んで、糸箱から何本かの束を取り出して見せる。
「澄乃はどの緑が好き?」
それぞれの束を日光にかざすと、似通った緑色が全然違う色に見えた。
光の当たり具合で色はまったく違って見えることを、初めて知った。
母が亡くなると、離れに来るのは澄乃だけになった。
父はめったに足を踏み入れなくなり、気付けば庭師も来なくなっていた。
晩秋に抜かれた池の水は、春になってもふたたび溜められることはなかった。
庭は次第に荒れていったが、それでも澄乃はこの離れが好きだった。
母との思い出もあるし、母屋の洋館で注文品の刺繍を繍うのとは気持ちが違う。
だが、近頃は依頼された仕事をこなすのに精一杯で、自分のためだけに繍う時間などほとんど取れない。
座敷の隅にぽつんと置かれた白布をかぶせた刺繍台を眺め、澄乃は橘朔也という軍人の顔をぼんやり思い浮かべた。
すらりとした長身、端整な顔だちと切れ長の目は、それだけで人目を惹くだろう。
あの若さで少佐なら、よほどの功績もあるに違いない。
