大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

 玄関のほうから、扉を開け閉めする音が聞こえてきた。

 澄乃は刺繍の針を止め、棚の置き時計に目を遣った。ちょうど朔也の帰宅時刻だ。

 針を針山へ戻して立ち上がる。廊下へ出ても佐和が台所から出てくる気配はなかった。

 足を速めて玄関へ向かうと、朔也が外套の釦を外しているところだった。

 軍帽を脱いだばかりの横顔は、夕暮れの冷気を帯びて仄白く見える。

「お帰りなさいませ」

 帯の前で両手を重ねて腰を折る。朔也は外套を脱ぎかけた姿勢で目を瞠った。

「……ただいま戻りました」

 面食らったように彼は返事をした。澄乃が直接迎えに出たことが、よほど意外だったらしい。

「外套を」

 朔也はわずかにためらってから、脱いだ外套と軍帽を澄乃に手渡した。腕にずしりと重みがかかる。澄乃はこらえきれず口早に切り出した。

「今日、篠田様のお宅へ伺いました」

「ああ、今日が納品日でしたね」

 すぐに合点してくれたのが嬉しくて頷く。

「半襟を合わせていただいたら、青磁色のお着物に赤い椿がよく映えて……。姿見の前で何度もお身体の向きを変えて確かめられて、顔色まで明るく見えると満足そうに言っていただけました」

 朔也が目許をゆるめる。

「それはよかった」

「はい。手巾(ハンケチ)もお気に召していただけました。広げたときの枝ぶりと、たたんだときに見える一輪が、どちらも素敵だと。──あ、受取書もちゃんとお渡ししました。少し可笑しそうになさってましたけれど」

 一気にそこまで言って、我に返る。

「申し訳ありません! お帰りになったばかりなのに、わたしったら……」

「いいえ、すぐに教えてもらえて嬉しいです。篠田夫人に満足していただけてよかったですね。澄乃さんは、どうですか」

「わたし……?」

「あなたは、満足ですか?」

 じっと見つめられて一瞬たじろぐも、こくんと頷く。

「納得のいく仕上がりでした」

「それならば、何よりです」

 静かに朔也が微笑む。澄乃は目を伏せ、外套を抱え直した。

「……お茶をお淹れします」

「お願いします」

 階段を上がっていく彼を見送りながら、澄乃は思わず口許をゆるめた。

 胸の奥がぽかぽかする。

 真摯に耳を傾けてくれただけでなく、澄乃自身の満足を尋ねてくれたことが嬉しい。

 何より「納得のいく仕上がりでした」と迷わず答えられたことが、素直に誇らしかった。



 二日後、一月十六日の午後。

 一条邸の応接室に篠田夫人が意気揚々と入ってきた。鳩羽鼠(はとばねず)の御召に紅梅の帯というくつろいだ装いながら、帝劇の興奮さめやらぬ様子で目を輝かせている。

「もう、昨日は大変でしたのよ、澄乃さん!」

 ソファに腰を落とすなり夫人が身を乗り出してくる。また『負けた』のかと冷や汗が浮かんだが、夫人はすこぶる上機嫌だ。

「お席へ着きましたら、隣の方がすぐに襟元へお気づきになって。まあ、なんて鮮やかな椿でしょうと仰ったの。青磁の着物に赤い椿が映えて、たいそうモダンなのに品があると言われたわ」

 夫人は喜びを抑えきれぬ態でころころと含み笑った。