大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

 夫人が求めたのは、和の品格と、人目を惹く華やかさの両立だ。

 刺繍を褒められるより、それを身につけた夫人が美しく、気品に満ちて見えることが重要なのだ。

「やはり澄乃さんに頼んで正解でしたわ」

 手巾を手許に添え、角度を変えて姿見を確かめながら夫人は満足げに頷いた。

「これで明日の装いは完璧だわ! 澄乃さん、本当にありがとう。──ああ、そうそう、忘れないうちにお代をお支払いしないと」

 澄乃は軽く頭を下げ、手提げから封筒を取り出した。

「こちらが材料費の内訳でございます。図案料とお急ぎの手間賃は、お約束どおり二十円になります」

 白塩瀬と手巾地、それぞれに使用した絹糸の代金を記した紙に、買い入れた店の受取書も添えた。

 夫人はざっと目を通すと、傍らに控える女中へ材料費の明細を渡した。

「こちらの額に二十円を足して包んできてちょうだい」

 かしこまって受け取った女中は、すぐに金封を持って戻ってきた。受け取った篠田夫人が金封を持ち直して澄乃に差し出す。頭を下げて金封を受け取ると、澄乃の胸にいつもとは違う感慨が広がった。

 これは施しではない。依頼を完遂した仕事の、正当な対価なのだ。

 朔也の言葉が、耳の奥でよみがえる。

『安売りしすぎだと、言っているのです』

 あのとき突きつけられた厳しさの意味が、今ならわかる。

 自分で値を決め、その値に見合う仕事をして、代金を受け取る。

 刺繍は仕事だと、これまでも口にしてきた。けれど、自分で値を定め、内訳を示し、その対価を受け取ることで、ようやく実体が伴った気がする。

 澄乃は金封を袱紗に包んで手提げにしまうと、別の封筒を取り出した。

「こちらをどうぞ、お納めくださいませ」

「なぁに?」

「お代を確かに頂戴したという、受取書でございます」

 夫人は封書と澄乃の顔を見比べ、少し可笑しそうに目を細めた。

「ずいぶんと改まったことをなさるわね。そのようなもの、これまでいただかなかったのに」

「仕事としてお引き受けするなら、きちんとしておくべきだと言われましたので……」

「あら、どなたに?」

「…………主人に」

 夫人は一瞬、目を瞠り、受取書へ目を落としてフフッと笑った。

「あの方らしいこと」

 それから改めて澄乃を眺め、少し楽しげに言い添えた。

「悪くありませんわ。澄乃さんも、いよいよ本職らしくなってきましたわね」

「恐れ入ります……」

 澄乃は頭を下げながら、頬が熱くなるのを感じた。

『あなたの好きなものは、きっと良いものですから』

 椿山御殿で聞いた朔也の声が、耳の奥によみがえる。

 帰りの車で握り返した、黒い革手袋に包まれた大きな手。手袋越しに、確かな力が伝わってきた。

 思い出した途端、指先が落ち着かなくなる。視線を泳がせると篠田夫人の半襟にふたたび目が留まった。

 夫人の襟元で咲く赤い椿には、澄乃自身の『好き』が入っている。それを入れてもよいと言ってくれたのは朔也だ。

「ああ、明日が楽しみ!」

 晴れやかな声に、澄乃はハッと我に返った。篠田夫人は上機嫌ににっこりした。

「皆様きっと絶賛されるわ。どなたがなんと仰ったか、ぜんぶお知らせしますからね」

 たじろぎ気味に頭を下げ、澄乃は丁寧に暇乞いをした。

 女中に送られて玄関を出ると、村瀬が車を寄せて後部座席の前に立っていた。

 ドアーを開けてもらって乗り込むと、ほっと溜め息が洩れた。

 車が静かに動き出す。

 番町の坂を下りながら、澄乃は先ほどの姿見の光景を思い返した。

 嬉しそうに自分の姿を眺める、青磁色の訪問着をまとった篠田夫人。その襟元で、冷たい雪をものともせずに咲く、真っ赤な藪椿──。

 『好き』を入れて、よかった。

 朔也が帰宅したら、すぐに話そう。

 そう思うだけで澄乃の口元は自然とほころんでいた。