大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

 番町の高台に建つ篠田伯爵邸の奥座敷には、穏やかな午後の光が障子を通して淡く射し込んでいた。

 姿見の前で、篠田夫人がゆっくりと身体の向きを変えている。右へ、左へ。顎をわずかに上げ、また戻してじっと見つめる。

 青磁色の訪問着に白塩瀬(しおぜ)の半襟。広く見せた半襟で、赤い藪椿(やぶつばき)が凛と咲いていた。

 澄乃は少し離れた位置から、刺繍そのものよりも夫人の立ち姿全体を眺めていた。

 顔、髪、襟元、帯、裾。

 赤い花が夫人の顔まわりを明るく照らしている。深緑の葉は青磁色の着物を引き締め、白い雪が赤と緑の強さをほどよくやわらげていた。

 刺繍だけが浮いて見えない。

 視線は自然に夫人の顔へと導かれる。

 澄乃は内心で、安堵の吐息を洩らした。

 椿山御殿で考えたことは間違っていなかった。

 半襟の意匠はごく簡潔なものだ。白塩瀬に赤い一重の藪椿と、艶のある深緑の葉。雪は主に葉と細い枝に載せてある。襟元から見える位置に一輪の咲いた椿と色づき始めた蕾を配し、余白を残した。

 白い雪は平板な塊にならないよう、白糸の濃淡にわずかな銀糸を交えてやわらかさと光を添えた。図案どおりに()い上がってはいるが、実際に身につけたときどう見えるかまでは、確かめてみないとわからない。

「素敵……!」

 夫人が感嘆の声を上げた。姿見の中の自分を見つめ、満面の笑みを浮かべている。

「本当に顔色まで明るく見えるわ」

 右へ、左へ。さっきから何度も同じ動きを繰り返しているのに、そのたびに新しい発見でもあるかのように、夫人の目が輝く。

「この着物、こんなに華やかだったかしら。この前着たときは、もう少し地味に見えた気もするのだけれど」

「……お着物が落ち着いた色合いですので、お顔に近いところへ赤を置きました。雪は、花に重ねすぎてはせっかくの赤が沈んでしまいますから、葉に載せることで冬らしさを出しました」

「なるほどねぇ」

 夫人は感心したように頷いたが、すぐに姿見へ視線を戻した。理屈よりも鏡に映る自分のほうが気になるらしい。

「あの、手巾(ハンケチ)もご確認いただけますか」

 桐箱をそっと押しやると、傍らに控えていた女中が中から白絹の手巾を取り出して夫人へ差し出した。

 しなやかな枝がゆるやかな曲線を描き、雪を載せた深緑の葉が赤い椿と蕾を引き立てている。

 夫人が手巾を広げると、白絹の上に枝ぶりの全体が現れた。

「まぁ。こちらはずいぶんと華やかね」

「お膝に広げたときに図柄全体が見えるようにいたしました。お手に持たれるときには、こちらの一輪がよく目に入ると存じます」

 澄乃の言葉に頷き、夫人は軽く折った手巾を片手に持って姿見を確かめた。

 白絹の端から覗く赤い椿が、夫人の手許を鮮やかに彩っている。

「あら、本当だわ。帝劇の座席でも、これならさりげなく目を惹けるわね」

「広げたときにも、お着物のお色に映えるよう工夫いたしました」

 夫人は満足そうに頷き、もう一度手巾を広げた。

「観劇後のお茶では、こうして膝に広げればよいわけね。素敵なのは半襟だけじゃないって、よくわかっていただけるわ」

 頭の中で光景を思い描いているのか、夫人はうっとりと呟いた。

「これならあの薔薇にも圧し負けるものですか。きっと皆さま、こちらばかり御覧になりましてよ」

 澄乃は曖昧に微笑んだ。

 勝ち負けのことは、正直よくわからない。

 ただ、赤い椿が青磁色の着物から浮いて見えないこと、夫人の顔と着物の双方を引き立てていること、半襟と手巾がそれぞれの用途に適した構図であること──。

 そのすべてが狙いどおりになっているという、確かな手応えを感じていた。