大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

「本当です。見るべきほどのことは見つ、です」

 目を瞠った朔也が、軽く噴き出した。冗談が通じてホッとする。

「では、『今は何をか期すべき』ですね」

「はい」

 心は決まった。どんな刺繍にすべきか、道筋は見えている。

 ただ。

 今度は別のことが、やけに気になり始めていた。

「──あの。伺ってもよろしいでしょうか」

「なんでしょう」

「以前、高宮家のことを口にされていましたよね。それって、もしかして──」

 朔也は黙ったまま何歩か進み、低く答えた。

「父が望んだことです」

 静かだが、強い口調だった。澄乃はいつか玄関口で村瀬と交わしていた彼の言葉を思い出した。

『知ったことか。届け出は済んでいる』

 あのときも、強い口調だった。洋食店での会食のときも。

 彼は言った。

『私が一条家へ婿入りしたのは、ただ単に澄乃さんと結婚したかったからです』

 その言葉も、彼の気持ちも、疑うつもりはない。きっとそれは本当だ。父が言ったように、朔也は自分を見初めて結婚を望んだのだ。

 いつどこで、どのように見初められたのかは、わからないけれど。

 それでもやはり、気になってしまう。

 高宮侯爵が政界に大きな影響力を持つことくらい、澄乃も知っている。侯爵の愛娘である冴子と結婚したほうが、朔也にとって社会的にも軍においても、きっと有利だったはず。

 いつだって自信に満ちあふれている冴子の姿が、いやでも脳裏に浮かんだ。

 あの人が朔也の隣に立っていたかもしれないと思うと、お腹の底が冷たくなるような、頭の芯がちりちりするような、落ち着かない心持ちになってしまう。

 唇を噛んでうつむいていると、いきなり手を握られた。

「帰りましょう」

 ぶっきらぼうに言って、朔也は足を速めた。引っ張られるように後に続きながら、気がつけば澄乃は彼の手を握り返していた。しっかりした手応えに、胸が震える。

 どうしよう。

 どうしよう、わたし、この人のこと──。

 門をくぐる。待ち構えていたように、村瀬が自動車の傍らに立っていた。

 朔也が後部座席の扉を開け、澄乃は黙って乗り込んだ。車が発進すると、ふたたび朔也が手を握った。

 おずおずと、その手を握り返す。

 前を向いたまま、座席に背を預けて。ほんの少し、肩が触れ合っている。

 朔也の掌の大きさが、今はとても心強かった。