「とても嬉しいです」
彼の声音はあくまで淡々としているのに、どうしてこんなに胸が騒ぐのだろう。うろたえながら、澄乃はぽそっと呟いた。
「……わたしも……です」
かすかな笑い声が、鼓膜を優しく撫でる。わざと反対方向を向いて、澄乃は冷たい風に頬を晒した。この熱を早く持ち去ってくれるよう願いながら。
「もう少し、歩きますか?」
朔也に問われて頷く。
休み処を離れ、園路の奥へと進んだ。
庭の一番奥まった区画にも、藪椿の群植があった。苔むした石組の間に数本がまとまって植えられ、低い枝を横に張っている。日当たりのよい場所の花はほとんど開いているが、石組の陰には固い蕾もまだ残っていた。
ふと、ひとつの花に目が留まった。
いくらか丈の低い木で、たくさんの花をつけている。そのうちのひとつにちょうどよく薄日が射し、花弁に美しい陰影が生まれていた。寄り添う蕾の風情も格別だ。
さっそく写生帳を開き、鉛筆を走らせる。花弁の重なり具合、光の当たる面と影に沈む面。傍らの蕾までひととおり描いてみて、少し離して眺めてみる。
悪くない。これなら図案に起こせそうだ。
張り切って朔也に報告しようと思った瞬間、どこからか女性の声が響いた。
「もし。橘様ではございませんこと?」
振り向けば園路の向こうから三人の女性が連れ立って歩いてくる。真ん中にいた女性が、少し足を速めて朔也に歩み寄った。
深みのある古代紫の道行をまとった、すらりとした女性だ。道行の裾から白練地に緋牡丹を大胆に染めた訪問着が覗いている。
ゆるやかに波打たせた髪で両耳を覆う、流行の〈耳隠し〉。艶やかな黒髪に挿された透かし彫りの白鼈甲の櫛が、冬の日を淡く弾いていた。
歳は澄乃と同じくらい。整った顔だちに軽くおしろいをはたき、唇に品よく紅をさした、いかにも当世ふうのご令嬢だ。
ふと、澄乃は眉根を寄せた。
見覚えが、ある。
朔也は澄乃を背後に隠すようにして女性に向き直った。
「一条ですが」
冷ややかな声で訂正され、女性の顔がわずかにこわばる。すぐにろうたけた微笑を浮かべて女性は会釈した。
「ご無礼いたしました。婿入りされたのでしたわね」
そう言うと女性は、ついと回り込んで澄乃の前に立った。
目が合い、ハッとする。
思い出した。この人は──。
「お久しぶりですこと、澄乃さん」
「……冴子様」
「ご結婚おめでとう存じます。立派なお婿さんをお迎えになって、よろしゅうございました」
「ありがとうございます」
「お知り合いでしたか」
固い表情のまま朔也が問う。
「女学校が一緒で……」
「わたくしのほうが一学年上ですけれど」
ホホ、と冴子はほっそりした指を唇に添えて笑った。
高宮冴子。侯爵家の令嬢だ。
彼の声音はあくまで淡々としているのに、どうしてこんなに胸が騒ぐのだろう。うろたえながら、澄乃はぽそっと呟いた。
「……わたしも……です」
かすかな笑い声が、鼓膜を優しく撫でる。わざと反対方向を向いて、澄乃は冷たい風に頬を晒した。この熱を早く持ち去ってくれるよう願いながら。
「もう少し、歩きますか?」
朔也に問われて頷く。
休み処を離れ、園路の奥へと進んだ。
庭の一番奥まった区画にも、藪椿の群植があった。苔むした石組の間に数本がまとまって植えられ、低い枝を横に張っている。日当たりのよい場所の花はほとんど開いているが、石組の陰には固い蕾もまだ残っていた。
ふと、ひとつの花に目が留まった。
いくらか丈の低い木で、たくさんの花をつけている。そのうちのひとつにちょうどよく薄日が射し、花弁に美しい陰影が生まれていた。寄り添う蕾の風情も格別だ。
さっそく写生帳を開き、鉛筆を走らせる。花弁の重なり具合、光の当たる面と影に沈む面。傍らの蕾までひととおり描いてみて、少し離して眺めてみる。
悪くない。これなら図案に起こせそうだ。
張り切って朔也に報告しようと思った瞬間、どこからか女性の声が響いた。
「もし。橘様ではございませんこと?」
振り向けば園路の向こうから三人の女性が連れ立って歩いてくる。真ん中にいた女性が、少し足を速めて朔也に歩み寄った。
深みのある古代紫の道行をまとった、すらりとした女性だ。道行の裾から白練地に緋牡丹を大胆に染めた訪問着が覗いている。
ゆるやかに波打たせた髪で両耳を覆う、流行の〈耳隠し〉。艶やかな黒髪に挿された透かし彫りの白鼈甲の櫛が、冬の日を淡く弾いていた。
歳は澄乃と同じくらい。整った顔だちに軽くおしろいをはたき、唇に品よく紅をさした、いかにも当世ふうのご令嬢だ。
ふと、澄乃は眉根を寄せた。
見覚えが、ある。
朔也は澄乃を背後に隠すようにして女性に向き直った。
「一条ですが」
冷ややかな声で訂正され、女性の顔がわずかにこわばる。すぐにろうたけた微笑を浮かべて女性は会釈した。
「ご無礼いたしました。婿入りされたのでしたわね」
そう言うと女性は、ついと回り込んで澄乃の前に立った。
目が合い、ハッとする。
思い出した。この人は──。
「お久しぶりですこと、澄乃さん」
「……冴子様」
「ご結婚おめでとう存じます。立派なお婿さんをお迎えになって、よろしゅうございました」
「ありがとうございます」
「お知り合いでしたか」
固い表情のまま朔也が問う。
「女学校が一緒で……」
「わたくしのほうが一学年上ですけれど」
ホホ、と冴子はほっそりした指を唇に添えて笑った。
高宮冴子。侯爵家の令嬢だ。
