いつものように、お礼も少しばかり——。
これまでずっと、はっきりと値段を言わずに済ませてきた。
夫人は母の旧縁だし、割に合わないと感じても言い出せなかった。
自分の感覚が正しいかどうかもわからなかった。
すでに確立している文様を刺繍するだけなら、十日あれば充分に間に合うだろう。
だが、今回は図案を一から起こさなければならない。
まずは本物の椿を見て、写生をして、図案を考えるのはそれからだ。
花、葉、枝をどのように配置するか。
刺繍糸だって、赤、緑、茶でそれぞれ一色というわけにはいかない。
十五日に帝劇へ着ていくなら、どんなに遅くとも前日には渡さなければ。
となると、今日を入れても九日しかない。
九日間で、まったく新しい図案の下絵を作り、繍う。
できなくは、ない。
手を抜けば、楽にもなる。
本物の椿をじっくり観察する手間を省いて、頭にある記憶の椿で描いてしまえばいいのだ。
それらしく描ける自信はあった。
夫人もおそらく気付かないだろう。
夫人の『お友達』も、細かな違いなど気にもせず、ちやほやと褒めそやして夫人を良い気分にさせるだろう。
だけど──。
(──それでいいの? 本当に?)
脳裏に菫の花が思い浮かんだ。
刺繍が上達して、いい気になっていた幼い自分は、あの花に教えられた。
本当に美しいものを作りたかったら、きちんと観察しなければいけないのだと。
石灯籠の足元に群生する菫の花。
しげしげと覗き込む自分。
ふと、記憶に影が射した。
(……あのとき、誰か側にいなかった……?)
「ね、できますわよね?」
切実そうに訴える篠田夫人の声に、ハッと澄乃は我に返った。
はい、と頷きそうになったとき、扉が敲かれた。
「──どうぞ」
佐和が扉を開けて頭を下げる。
「若旦那様がお戻りになりました」
パッと夫人が顔を輝かせた。
「あらっ、お婿さんがお帰りになったの? 軍人さんでしたわね。ぜひご挨拶させていただきたいわ。ねぇ、澄乃さん、よろしいでしょ?」
仕方なく、澄乃は小さく佐和に頷いた。
玄関ホールのほうから遣り取りの声が聞こえ、やがて開いた扉から軍服姿のまま朔也が入ってきた。
外套と帽子、軍刀はすでに佐和に渡したのだろう。
それでも朔也のたたずまいはどこまでも毅然として隙がない。
彼は篠田夫人に向かい、軍人らしいきびきびした所作でお辞儀した。
「お初にお目にかかります。一条朔也です」
これまでずっと、はっきりと値段を言わずに済ませてきた。
夫人は母の旧縁だし、割に合わないと感じても言い出せなかった。
自分の感覚が正しいかどうかもわからなかった。
すでに確立している文様を刺繍するだけなら、十日あれば充分に間に合うだろう。
だが、今回は図案を一から起こさなければならない。
まずは本物の椿を見て、写生をして、図案を考えるのはそれからだ。
花、葉、枝をどのように配置するか。
刺繍糸だって、赤、緑、茶でそれぞれ一色というわけにはいかない。
十五日に帝劇へ着ていくなら、どんなに遅くとも前日には渡さなければ。
となると、今日を入れても九日しかない。
九日間で、まったく新しい図案の下絵を作り、繍う。
できなくは、ない。
手を抜けば、楽にもなる。
本物の椿をじっくり観察する手間を省いて、頭にある記憶の椿で描いてしまえばいいのだ。
それらしく描ける自信はあった。
夫人もおそらく気付かないだろう。
夫人の『お友達』も、細かな違いなど気にもせず、ちやほやと褒めそやして夫人を良い気分にさせるだろう。
だけど──。
(──それでいいの? 本当に?)
脳裏に菫の花が思い浮かんだ。
刺繍が上達して、いい気になっていた幼い自分は、あの花に教えられた。
本当に美しいものを作りたかったら、きちんと観察しなければいけないのだと。
石灯籠の足元に群生する菫の花。
しげしげと覗き込む自分。
ふと、記憶に影が射した。
(……あのとき、誰か側にいなかった……?)
「ね、できますわよね?」
切実そうに訴える篠田夫人の声に、ハッと澄乃は我に返った。
はい、と頷きそうになったとき、扉が敲かれた。
「──どうぞ」
佐和が扉を開けて頭を下げる。
「若旦那様がお戻りになりました」
パッと夫人が顔を輝かせた。
「あらっ、お婿さんがお帰りになったの? 軍人さんでしたわね。ぜひご挨拶させていただきたいわ。ねぇ、澄乃さん、よろしいでしょ?」
仕方なく、澄乃は小さく佐和に頷いた。
玄関ホールのほうから遣り取りの声が聞こえ、やがて開いた扉から軍服姿のまま朔也が入ってきた。
外套と帽子、軍刀はすでに佐和に渡したのだろう。
それでも朔也のたたずまいはどこまでも毅然として隙がない。
彼は篠田夫人に向かい、軍人らしいきびきびした所作でお辞儀した。
「お初にお目にかかります。一条朔也です」
