有能すぎる押しかけ婿様に完全包囲されました

 言葉を失う澄乃の向かいで、父が気まずそうに咳払いした。

 橘少佐はまったく悪びれた様子もなく澄乃を見つめている。

 そこには欲得も打算も値踏みも感じられない。

 透徹したまなざしは、純粋とさえ言っていいように思えた。

 まるで清冽な少年の瞳を覗き込んだかのような軽い眩暈を覚え、澄乃は頭を振った。

 少し間を置いて彼は静かに告げた。

「今日はこれでお(いとま)します。あなたにも、考える時間が必要でしょうから」

 彼は軍帽をかぶり直すと、軍人らしいきびきびした所作で一礼した。

「お時間を取っていただけたことに感謝します」

 篤之が立ち上がろうとするのをやんわりと手で止め、扉へ向かう。

 彼は戸口で振り返り、澄乃に目礼した。

「また、参ります」

 彼は静かに部屋を出ていった。

 硬質な靴音が廊下を遠ざかってゆく。

 玄関口で佐和が応対している声が聞こえ、やがて自動車の発動機(エンジン)音が低く響いてきた。

 まもなくそれも宵闇に溶け、書斎には重い沈黙だけが残った。



 すべての物音が消えると、書斎の電灯まで薄暗くなったように感じられた。

 暖炉では燠火だけがゆっくりと瞬いている。

 父と娘は向かい合って座ったまま、しばらく黙り込んでいた。

 膝の上で握っていた拳を、澄乃はそっと開いた。

 よほど強く握りしめていたようで、爪の食い込んだ跡が掌にくっきりと残っていた。

「せめて事前にお話しいただければ……」

 こわばる顎を無理に動かすようにして呟くと、父は居心地悪そうに身じろぎしてステッキを握り直した。

「急に決まったことだ」

「……では本当に、橘様が今持ち込んで来られたお話なのですね」

 そんなことが実際にあるのかと、澄乃は嘆息した。

 篤之はステッキをついて大儀そうに立ち上がった。

 背を伸ばしても以前のような颯爽とした立ち姿にはならないのがどうにも悲しい。

「お父様、どうぞお座りになって」

 篤之は黙ってかぶりを振り、ゆっくりと書き物机に歩み寄った。

 引き出しを開け、取り出した封筒を手に戻ってくると、澄乃に差し出す。

「できることなら、見せたくはなかったのだが」

 父は溜め息をつき、ソファの背に掴まって腰を下ろした。

 訝しみながら澄乃は封筒の中身を取り出した。

 屋敷を差し押さえるという通告書だった。

 期限は正月明け。

「なんとか延期してもらえるよう、つてを辿って頼み込んでいるところだった」

 絶句していた澄乃は慌てて言った。

「年内に、いくらかお金が入ります。篠田様の訪問着や、いろいろな小間物で──」

「いくらかでは、だめなのだ」

 苦渋の声で父は遮った。

 こんなときでも声を荒らげない。

 背中や脚が痛くてたまらなくても、八つ当たりなど決してしない人だ。

「屋敷の修繕も後回しにし続けている。あちこちに雨漏りがあることくらい知っているよ。佐和の給金だって、もう三月も滞っている」

 澄乃はハッとした。

 佐和は給金について一度も口にしたことがない。

 母の乳母だった佐和は、輿入れのときに侍女として付いてきた。

 今では一条家の家政全般を任せられており、澄乃にとっては祖母のような存在だ。

「……橘様は、このことをご存じなのですね?」

「ああ」

「ですが……どこから我が家をお知りになったのでしょう」

一六八(いろは)銀行だろうな。明言はしなかったが」

 澄乃は書類から顔を上げて父を見た。

「一六八銀行、ですか?」

「栃木の雨岡に本店を置く、もとは国立銀行として始まった銀行だ。橘少佐の父君は、あそこの取締役を務めておられる。十年、いや十五年ほど前だったか……我が家を訪ねてきたことがあった。東京に支店を出したいと」

「そうでしたか」

「橘家は雨岡藩に仕えていた武士の家系でな。名望家として官僚や教育者を輩出していたが、銀行業に乗り出してさらに力をつけた」

 なるほど、と頷き、澄乃はふたたび書類を眺めた。

「……一六八銀行が債権者の筆頭なのですね」

「ああ。東京に支店を出す折、私が口を利いた縁があったから、良い条件で貸してくれたのだよ。しかしそれももう、限界だな……」

 父は自嘲気味に呟いた。

「昔は拝まれる側だったのが、今では拝む側、ということさ」

「返済を猶予してくれるよう、橘様がご実家に頼んでくださる……ということでしょうか」

「いや。すべての債務を彼が引き受け、今返せる分は返して、残りは株の配当と月々の俸給から返済していくそうだ。相続や分与で一六八銀行の株をかなり持っていると言っていた」

 陸軍少佐とはいえ俸給だけで背負える額ではないだろうと思ったら、銀行株の配当と将校としての定収入、そして自分の名で借財を引き受けるだけの信用があったのだ。

 それがわかったところで、不審はまだぬぐえない。

「──その条件が、一条家への婿入りということですか」

「そうだ」

「他にもあるでしょう」

 ないはずないと、語気を強めると父は肩をすくめた。

「それだけだ。彼はただ、この家の婿にしてくれればいいと言った。望みはそれだけだと」

「そんなわけ──」

「少佐は、おまえを見初めたのだよ」

 生真面目な顔で取りなすように言われ、澄乃は眉を吊り上げた。

 カッと頬が熱くなる。

「何を仰るの!? あの方とお会いしたことなどありません!」

「おまえは覚えていなくても、向こうとしては忘れられないということもあるだろうさ」

「……そんな、こと。大体、あの方は仰ったではありませんか。一条の名が欲しいのだと」

「欲しいとは言わなかったと思うがね。話をしていて、悪い男ではないと感じた。そうでなければ、おまえと引き合わせたりするものか」

 確かにそれはそうかもしれない。

 しばらく黙って考えを巡らせ、澄乃は父に問うた。

「お父様は、このお話に乗り気なのですね」

 篤之はすぐには答えず、書き物机の洋燈(らんぷ)に目を遣った。

「無理強いするつもりはない。だが、澄乃。一条家を残すためにはおまえが婿を取ることが必要なのは事実だ」

「わかっています」