大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

 澄乃は新しい(ページ)をめくり、赤い藪椿を見つめた。一重咲きの、美しい花弁の重なり。まるで、謎めいた微笑のような……。

 澄乃は鉛筆を握り直し、角度や距離を変えて幾通りもの素描をした。

 しばらく写生に没頭し、ふと視界の隅で影が動いた気がして顔を上げる。

 いつのまにか朔也が背後に回り、行き交う人の流れをさりげなく遮っていた。園路をそぞろ歩く客は何組もいたが、おかげで澄乃の近くまでは誰も来ない。そうでなかったら、椿を鑑賞する客が好奇心から澄乃の写生帳を覗き込んだだろう。

 朔也は澄乃と目が合うと、「そのまま」と言うように小さく顎を引いた。

 頷いて椿に視線を戻し、気の済むまで写生すると、今度は自分の歩調で進み始めた。

 目を引く椿に出会うたび、足を止めて描く。

 淡桃色の小ぶりな椿。花弁の先だけにほんのり紅を差す白椿。まだ堅く閉じた暗紅色の蕾。

 枝の伸び方や分かれ方。若い枝と古い枝の色味の違い。

 奥へ進んでいくと、頭上で枝が重なって陰になったところへ出た。ちょうど石段になっていて、湿気が多いせいかかなり苔むしている。下りようとしたとき、横からすっと手が差し出された。

 見上げれば朔也がかすかに微笑んでいる。

 一瞬ためらい、そっと右手を預けた。やわらかな革手袋越しに、しっかりした指の感触が伝わった。

 祝言の日に見た、万年筆を握る武骨な手が、ふいに思い浮かぶ。熱くなる頬を隠すように澄乃は顔をうつむけ、短い石段を下りた。

 下りきると朔也は何も言わず、ごく自然に手を離した。

 ほっとするよりも、何故か寂しいような心持ちになってしまって、どぎまぎする。手袋越しの指の感触がいつまでも消え残り、鉛筆を握る指がなんだかくすぐったかった。

 ぽつぽつと写生を続けながら歩くうち、ずっと黙っていた朔也が静かに声を上げた。

「少し、休憩しませんか」

 見れば園路の先に、休み処が設けられている。緋毛氈を敷いた縁台が庭木の下に置かれ、客たちに薄茶がふるまわれていた。

「ずっと歩きどおしで、冷えたのではありませんか」

 確かに剥き出しの手はかなり冷たくなっている。澄乃は頷いて休み処へ足を向けた。

 空いていた縁台に並んで腰を下ろすと、すぐに女中が薄茶と干菓子を運んできた。茶碗を両手で持ち、思った以上に指先が冷えていることを実感する。

 指先を温めながらゆっくりと薄茶を飲み、干菓子を口に運んだ。

 薄茶を飲み終えた澄乃は、写生帳を膝に置いて最初から(ページ)をめくってみた。ここまで描いた素描を順に眺める。

 すべて鉛筆描きだが、見ればすぐに元の花が思い浮かぶ。

 様々な色や形があった。白や赤、薄桃色、濃桃色。斑入りのもの、絞り柄。一重、椀咲き、猪口(ちょこ)咲き。八重、千重、牡丹咲きに獅子咲き。

 雄蕊の色も、黄色だけでなく、白っぽいものや紅色のものまで。