「……なんだと?」
「私が一条家へ婿入りしたのは、ただ単に澄乃さんと結婚したかったからです。養子縁組は一条伯爵のご要望でした。澄乃さんとの婚姻を望むなら養子になって爵位を継げと言われたので、従ったまで」
澄乃は仰天した。そんな話は聞いていない。
確かに父は言った。
『橘少佐はおまえを見初めたのだよ』
と。
それを自分は全否定した。会ったこともない人に見初められるなんてありえない。そんな、平安時代でもあるまいし……。
修治郎は毒気を抜かれた風情で黙り込んだ。
聡子のほうは目をきらきらさせ、なんだかうっとりしているように見える。
それきり誰も大きな話題を口にしなかった。
香ばしい珈琲の香りが、気まずい空気を幾分やわらげてくれた。
当然という顔つきで修治郎が会計を済ませ、それぞれに外套や道行を着て店の外に出る。
聡子が改めて澄乃に礼を述べた。
「いただいた半襟は、大切に使わせていただきますわ。今度ぜひ、宅にいらしてくださいましね」
「ありがとうございます」
修治郎は中折帽のふちをちょっと持ち上げて会釈した。
「本日はありがとうございました。失礼な物言いをして申し訳ない」
「いいえ。お目にかかれて嬉しゅうございました」
店の前には黒塗りの自動車が二台停まっている。前方の大きな車は修治郎たちが乗ってきたもので、後ろのやや小さめなのが朔也の車だ。
かつて橘家の当主が使い、朔也が少佐に昇進したことを祝って譲った車。それを聞いただけで、朔也が橘家で確固たる存在感を示していたこと、父親に期待されていたことがわかる。
もう一度お辞儀をして聡子が後部座席に乗り込み、修治郎が続く。
助手席のドアーを開けて、道明が明るく言った。
「それでは、義姉さん。おやすみなさい」
澄乃は微笑んで会釈した。
「おやすみなさい」
発進する自動車を見送っていると、後ろに控えていた車がゆっくりと前進した。朔也がドアーを開けてくれて乗り込む。隣に朔也が腰を下ろすと同時に運転席の村瀬が尋ねた。
「お屋敷でよろしいですか」
「ああ」
車は銀座の通りを山の手へ向かって走り出した。
車内は静かだった。
やがてぽつりと朔也が詫びた。
「兄が失礼なことを言いました。謝ります」
「かまいません」
しばらく間を置いて、澄乃は呟いた。
「……わたしとの結婚は、橘家にとってご迷惑だったのですね」
「迷惑をかけたのは私です」
穏やかに朔也は答えた。
「父や兄が腹を立てているのは私に対してであって、あなたが引け目を感じる必要はない」
「でも……もっと良いご縁が、おありだったのですよね……?」
「父の希望と私の望みは相いれなかった。それだけです」
澄乃はそれ以上尋ねなかった。
街灯がぽつぽつと灯る坂道を、発動機音を響かせて車が上ってゆく。暗い車内で、隣の座席の朔也は近いようで遠い。
彼の望みとは、なんだったのだろう。
今まで澄乃は、朔也が伯爵位を得るために一条家へ入り込んだのだと思っていた。澄乃の問いに対し、そのように答えたはずだ。
だが、先ほど彼はきっぱりと断言した。養子縁組は澄乃と結婚するためだったと。
なだめるような父の言葉がふたたび思い浮かぶ。
『少佐はおまえを見初めたのだよ』
不本意にも頬が熱くなり、車内が暗くて助かったと澄乃はつくづく安堵した。
「私が一条家へ婿入りしたのは、ただ単に澄乃さんと結婚したかったからです。養子縁組は一条伯爵のご要望でした。澄乃さんとの婚姻を望むなら養子になって爵位を継げと言われたので、従ったまで」
澄乃は仰天した。そんな話は聞いていない。
確かに父は言った。
『橘少佐はおまえを見初めたのだよ』
と。
それを自分は全否定した。会ったこともない人に見初められるなんてありえない。そんな、平安時代でもあるまいし……。
修治郎は毒気を抜かれた風情で黙り込んだ。
聡子のほうは目をきらきらさせ、なんだかうっとりしているように見える。
それきり誰も大きな話題を口にしなかった。
香ばしい珈琲の香りが、気まずい空気を幾分やわらげてくれた。
当然という顔つきで修治郎が会計を済ませ、それぞれに外套や道行を着て店の外に出る。
聡子が改めて澄乃に礼を述べた。
「いただいた半襟は、大切に使わせていただきますわ。今度ぜひ、宅にいらしてくださいましね」
「ありがとうございます」
修治郎は中折帽のふちをちょっと持ち上げて会釈した。
「本日はありがとうございました。失礼な物言いをして申し訳ない」
「いいえ。お目にかかれて嬉しゅうございました」
店の前には黒塗りの自動車が二台停まっている。前方の大きな車は修治郎たちが乗ってきたもので、後ろのやや小さめなのが朔也の車だ。
かつて橘家の当主が使い、朔也が少佐に昇進したことを祝って譲った車。それを聞いただけで、朔也が橘家で確固たる存在感を示していたこと、父親に期待されていたことがわかる。
もう一度お辞儀をして聡子が後部座席に乗り込み、修治郎が続く。
助手席のドアーを開けて、道明が明るく言った。
「それでは、義姉さん。おやすみなさい」
澄乃は微笑んで会釈した。
「おやすみなさい」
発進する自動車を見送っていると、後ろに控えていた車がゆっくりと前進した。朔也がドアーを開けてくれて乗り込む。隣に朔也が腰を下ろすと同時に運転席の村瀬が尋ねた。
「お屋敷でよろしいですか」
「ああ」
車は銀座の通りを山の手へ向かって走り出した。
車内は静かだった。
やがてぽつりと朔也が詫びた。
「兄が失礼なことを言いました。謝ります」
「かまいません」
しばらく間を置いて、澄乃は呟いた。
「……わたしとの結婚は、橘家にとってご迷惑だったのですね」
「迷惑をかけたのは私です」
穏やかに朔也は答えた。
「父や兄が腹を立てているのは私に対してであって、あなたが引け目を感じる必要はない」
「でも……もっと良いご縁が、おありだったのですよね……?」
「父の希望と私の望みは相いれなかった。それだけです」
澄乃はそれ以上尋ねなかった。
街灯がぽつぽつと灯る坂道を、発動機音を響かせて車が上ってゆく。暗い車内で、隣の座席の朔也は近いようで遠い。
彼の望みとは、なんだったのだろう。
今まで澄乃は、朔也が伯爵位を得るために一条家へ入り込んだのだと思っていた。澄乃の問いに対し、そのように答えたはずだ。
だが、先ほど彼はきっぱりと断言した。養子縁組は澄乃と結婚するためだったと。
なだめるような父の言葉がふたたび思い浮かぶ。
『少佐はおまえを見初めたのだよ』
不本意にも頬が熱くなり、車内が暗くて助かったと澄乃はつくづく安堵した。
