大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~



 翌朝、朔也を送り出すと、澄乃は箪笥を覗いて考え込んだ。

 椿を見に行くのだから椿柄を避けるのは当然として、どんな着物がいいだろう。あまり派手なものでは場にそぐわないが、かといって地味すぎても上流の催し物に顔を出すには失礼になる。

(派手な着物など、もともと持っていないけれど……)

 少し悩み、淡い藤鼠の小紋を選んだ。遠目には無地に見えるほど細かな梅鉢を地紋のように散らした一枚で、派手ではないがしっとりと艶がある。

 帯は白茶の地に小さな菱文を織り出した昼夜帯で、裏はくすんだ紅梅色。半襟は白の塩瀬(しおぜ)に、自分で繍った細い枝梅をあしらったものにした。

 道行は、先日銀座へ出たときにも羽織った深川鼠。袖口にほんの少し裏地の薄い珊瑚色が覗き、いい塩梅の差し色になる。

 髪は佐和に結い直してもらい、束髪に鼈甲の小さな簪を一本挿した。

 佐和がやけにニコニコしているものだから、澄乃は軽く睨んでやった。

「お仕事の参考として、椿を見に行くだけよ」

「わかっておりますとも」

「お仕事なの」

「はい、大変結構でございますね」

 その声は明らかに笑いをこらえている。澄乃はむすっとして口を閉じた。

 昼餉はすでに済ませた。朔也は朝、昼食は陸軍省の食堂で摂ってくると言って出かけ、先ほど帰宅した。今は自室で着替えているところだ。

 道行を着ると、澄乃は写生帳と数本の鉛筆を入れた小さな手提げを持って階段を下りた。

 朔也はすでに玄関ホールに来ていた。

 消炭色(けしずみいろ)の三つ揃いに海老茶のネクタイ。黒羅紗の外套を腕に掛け、黒い革手袋を嵌めた手に背広と似た色合いの中折帽を持っている。銀座での会食のときとは色合いが違うが、相変わらず隙のない装いだった。

 歩み寄っていくと、彼は淡い笑みを浮かべた。

「よくお似合いです」

「……ありがとうございます」

 澄乃は視線を逸らすように目を伏せて呟いた。少し前までならただのお世辞としか聞こえなかっただろうに、どういうわけか近頃は妙にどぎまぎしてしまう。

 朔也は外套に袖を通し、中折帽をかぶると、澄乃のために玄関の扉を開けた。

「では、参りましょう」

 玄関前の車寄せには村瀬の運転する黒塗りの自動車が停まっていた。朔也は歩いて陸軍省に通っているので、自動車を出すのは銀座の会食以来だ。

 ふたりが後部座席に収まると、車はゆっくりと動き出した。佐和が深々と頭を下げて見送る姿がちらりと窓から見えた。

 市谷の高台を下り、車は牛込の町を北へ進んだ。やがて江戸川沿いの道へ出る。鈍色の川面が陽光を反射し、岸辺の枯れ柳が冬風にかすかに揺れていた。

 江戸川橋を渡って関口へ入ると、ほどなく車は目白坂へ折れ、目白台へ向かって上り始めた。

 澄乃は膝に置いた手提げをなんとなくまさぐった。黙っていると落ち着かないが、かといって意味もなく話しかけても、朔也を煩わせるだけのような気がする。どうしようか迷っているうちに、車はどんどん目的地へ近づいていく。

 坂の上では常緑の木立が濃い影を落としていた。薄い冬の陽が雲間から射し、寺の築地塀や屋敷の土塀を白く浮かび上がらせている。静かな坂道を上っていくと、ほどなく高い石垣と立派な門構えが見えてきた。

 車が止まり、門柱の脇に控えていたお仕着せの使用人が歩み寄ってくる。

 運転席から下りた村瀬が後部座席の扉を開けた。先に降りた朔也が、ごく自然に手を差し出す。澄乃は手を伸ばしてから、自分がためらわなかったことに気付いた。

 革手袋を嵌めた長い指が、しっかりと澄乃の手を包んだ。