大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

「ええ、千駄木の東都医専です。うちは湯島なんで、近くて便利なんですよ」

「近いからとぎりぎりまで寝ているから、しょっちゅう遅刻するんだ。今度落第したら郷里(さと)に送り返すぞ」

「こんな時までお説教は勘弁してくださいよ」

 情けない顔で懇願され、修治郎は肩をすくめた。フフと隣で聡子が笑っている。しょっちゅうこんな遣り取りが繰り返されているのだろう。

 魚料理の次は仔牛のカツレツが出た。薄く叩き伸ばした牛肉にパン粉をつけて揚げ焼きにしたもので、付け合わせは馬鈴薯と人参だ。

 道明はこれが好物らしく、待ってましたとばかりにナイフとフォークを掴んだ。

 修治郎は赤葡萄酒を飲みながらカツレツを口に運んでいたが、やがて低い声音で言い出した。

 目許がほんのり赤らんでいる。少し酔ったのかもしれない。

「朔也。おまえ、今回の件で父上のご機嫌をひどく損ねたと、わかっているのだろうな」

「もちろんわかっています」

 平然と朔也は答えた。兄と違って彼の目許は相変わらず涼しげだが、声色にはやや無遠慮な響きが感じられる。

 澄乃はグラスから赤葡萄酒をちょっぴり口に含んだ。お酒は強くないので食事の合間にほんの少ししか飲んでいない。

 道明はすでにカツレツを完食し、パンにバターを塗り付けている。

 隣の聡子はもう満腹のようで、室内に給仕がいないことを確かめると道明に耳打ちし、半分残ったカツレツの皿をそっと押しやった。嬉しそうに道明は皿を取り替えて食べ始めた。

 思わず澄乃は自分の皿を見た。残っている量は聡子よりは少ないが、これ以上は食べられそうにない。

 朔也の横顔を窺っていると、視線に気付いて澄乃を見た。おずおずと目線でカツレツを示すと、彼は頷いて皿を交換してくれた。

 ホッとしてパンに手を伸ばす。

 朔也は背が高いだけでなく、軍人らしく鍛えられた体格をしている。朝は竹刀を持って庭に出て、半刻ほどの素振りを欠かさない。食事量も体格相応だ。

 修治郎は、妻の残りを平然と口にする朔也を渋い顔で見やり、また一口赤葡萄酒を飲んだ。

「……ふん。本当にわかっているのか怪しいものだ。父上は少佐の昇進祝いにと、おまえにご自分の自動車を譲っただろう。まだ二年ほどしか乗っていない、お気に入りだったのに」

 澄乃はハッとして朔也の横顔を盗み見た。

 初めて彼が一条家を訪れた際、玄関先に停まっていた黒塗りの車が思い浮かぶ。やけに立派な車だと思ったら、父親からの昇進祝いだったのか。

「父上がおまえをどんなに誇らしく思っておいでか、わからんはずはあるまい。それなのにおまえときたら、我々に何の相談もなく、た──」

「兄さん」

 朔也が目を細め、冷ややかに兄を遮る。

 言葉を詰まらせた修治郎は、不貞腐れたようにぼそりと言った。

「……あんな良い話を勝手に断りおって」