大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

「はい」

 澄乃は気を取り直して頷いた。

 中へ入ると、暖かな空気とともにバターと香草の香りが鼻先をふわりとかすめた。

「いらっしゃいませ。ご予約はいただいておりますか」

 制服の給仕に尋ねられ、朔也は頷いた。

「一条だ。予約は橘の名で入っている」

 そう言うと給仕はうやうやしくお辞儀した。

「承っております。こちらへどうぞ」

 澄乃は案内に従いながら朔也の横顔を窺った。

 彼は迷うことなく『一条』と名乗った。席を予約したのは橘でも、自分はもう一条なのだと澄乃に向けて宣言しているつもりだろうか。

 いや、考えすぎだ。単に彼は事実を伝えただけ……。

 澄乃は軽く頭を振り、二階へ続く階段を上り始めた。

 扉の前には同じ制服の給仕が控えており、彼に外套と道行を預けた。

 案内係の給仕が扉を(たた)き、『一条様がお見えでございます』と告げる。

 朔也に続いて部屋に入ると、並んで席に着いていた三人が一斉に顔を上げた。

 男性ふたりに挟まれて女性がひとり座っている。

 三人は椅子から立ち上がり、澄乃たちとテーブルを挟んで向き合うと、最も年長の男性に倣ってお辞儀した。

「このたびは急なことで、ご挨拶が後になりましたことをお詫びします」

「こちらこそ、ご無礼いたしました」

 澄乃が返すと、年長の男は会釈した。

「朔也の兄、橘修治郎(しゅうじろう)と申します。一六八(いろは)銀行東京支店で次長をしております」

「お初にお目にかかります。一条澄乃でございます」

 修治郎は朔也より線が細く、いくぶん神経質そうな面差しの男だった。昨夜見直した身上書によれば、年齢は三十四歳。きっちり仕立てた三つ揃い姿で、地位の高さを反映してか堂に入った物腰だ。

 切れ長の目もとが朔也に似ている。

 修治郎は返礼すると、隣の女性を手で示した。

「妻の聡子(さとこ)です」

「聡子と申します」

 なよやかに頭を下げて微笑んだ聡子は、年齢は三十歳ほど。薄香色の訪問着で、七宝文様を金糸で織り出した青丹の帯を締めている。いかにも良家の奥様然としているが気取ったところはなく、向けられるまなざしには親しみのこもった温かみが感じられた。

「道明はもうご存じですね」

 兄に名を呼ばれた道明は、急いで頭を下げた。

「改めまして、おめでとうございます!」

「繰り返す必要はない」

 にべもなく朔也が言うと、道明は照れ笑いを浮かべて頭をかいた。

「違いますよ、新年のご挨拶です」

 兄の冷然とした物言いには慣れているようで、けろっとしている。

 修治郎はたしなめるように末弟をひと睨みして言葉を次いだ。