大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

「別です」

 澄乃は敢然と頷いた。

 夫人が軽く鼻を鳴らすと、気がついたように朔也が付け足した。

「購入した店の領収書をお渡ししましょう」

「結構よ。澄乃さんがごまかしなどしないことは、ちゃんとわかってますから」

 篠田夫人はツンとして立ち上がった。

「念のため申し上げておきますけど、日にちは絶対に動かせませんからね。十四日のお昼にはいただきたいわ」

「承知しました」

 朔也とともに玄関まで夫人を送った。自家用の人力車に乗り込んだ夫人に、ふと思い出して澄乃は歩み寄った。

「篠田様。お差し支えなければ、帝劇へ着ていかれるお召し物を何日かお借りできますか? 実際に見て、図案を考えたいので……」

「あとで届けさせますわ」

 夫人は鷹揚に頷き、車夫に合図した。幌が下ろされ、(くるま)が動き出す。

 澄乃はお辞儀して夫人を見送った。

 玄関ホールに戻ってふたりきりになると、澄乃は思わず朔也に頭を下げた。

「ごめんなさい」

 いきなり頭を下げられ、朔也が面食らう。

「何を謝るんですか」

「わたしが、自分で言うべきことでした」

「……言ったじゃないですか、ちゃんと」

 顔を上げると、朔也はかすかに苦笑していた。

「昔から付き合いがある人に対して条件を変えるのは、誰にとっても言い出しにくいものですよ」

「はい……」

「参考までにお聞きしますが、篠田夫人の訪問着に入れた刺繍は、いくらになりましたか」

「あ……。三十五円、です」

「材料費は別で?」

「いえ、込みで……」

 朔也はしばらく黙った。

「澄乃さん」

「は、はい」

「あなたは、私との結婚を承諾してくれたとき、ご自分の刺繍は趣味ではなく仕事として続けたいと言いましたね」

「……はい」

「今のあなたの値付けだと、私には仕事と思えません」

 朔也の口調は穏やかだったが、澄乃は横面を張られたような衝撃を覚えた。

「……素人、なので」

「そういう意味ではない」

 やや苛立ったように朔也は遮った。

「安売りしすぎだと、言っているのです」

 澄乃は驚いて朔也を見上げた。

「でも、ものには適正価格がある、と」

「それは日用品や必需品の話です。あなたの刺繍はそのどちらでもない。はっきり言って贅沢品だ。贅沢品に適正価格などありません。費やした時間と労力に釣り合う値段を、あなたが決めればいい。それに納得した人が買えばいいんです。買いたがる人は大勢いますよ。篠田夫人以外にもね」

「そう……でしょうか……」

「私は芸術の目利きではないが、それでもあなたの刺繍が並みのものでないことくらいわかる。せっかくのその腕前を、安売りしてほしくありません」

 呆然とする澄乃を、朔也はじっと見つめた。

「あなたは、ご自分の刺繍を仕事だと言った。だが、あなたはまだ『仕事』の意味がよくわかっていないらしい。責めているのではありません。あなたは伯爵家のご令嬢だ。今流行(はやり)の職業婦人ではない。だが、本当に刺繍を『仕事』にするなら……あなたもまた職業を持つひとりの婦人であると、考えてみてもいいのではありませんか」

 朔也はそう言って、怜悧な目許をゆるめた。

「着替えて来ます」

「あ、はい。お茶を……お淹れします」

「ありがとう」

 朔也は頷き、階段を上っていった。

 その後ろ姿を見上げながら、澄乃は心の中でそっと呟いた。

 職業婦人。

 わたしが、職業婦人……?

 趣味ではなく、仕事。

 わたしの──わたしだけの、仕事。

 正当な対価を受け取れる、仕事──。

 胸の奥が、熱くなった。

 澄乃は小紋の胸元を押さえ、台所へ向かった。