大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

 訪問着の刺繍が出来上がれば、年内にまとまったお金が入る。それほどの額ではないにせよ、今の一条家にはどうしても必要なお金だ。

 半襟の仕事は、単価はそれほどでなくても数をこなせる。白無地では物足りないが着物を新しく誂えるほどではない──そういう人たちに、西洋風の趣を取り入れた澄乃の刺繍は人気があった。

 澄乃は針を戻し、糸箱を開けて眉根を寄せた。これから使う色糸の残りがかなり心細い。

「……困ったわ」

 糸を買わないと仕上げられない。仕上がらないとお金が入らない。だが、手持ちのお金は、使うのが少々ためらわれるくらいしか残っていない。

 いつもの堂々巡りが始まって、澄乃はなるべく押さえつつも溜め息を洩らさずにいられなかった。

 糸箱の蓋を閉めようとして、澄乃はふと手を止めた。蓋の裏に挟んであった小さな紙片が目に留まる。先月、佐和と買い物へ出たときに通りがかった百貨店の前で配られていたチラシだ。

 色刷りの紙に、洋傘を差した着物姿の女性が描かれている。手には刺繍と思われる花模様の入った小さな手巾(ハンケチ)

 舶来品の小物の宣伝だ。

 わたしだって、これくらい……と胸の内がざわめいた。

 いいえ。わたしなら、もっと素敵に繍えるわ、きっと。洋風の蝶々だって、薔薇だって。

 澄乃は軽く頭を振り、チラシを折り畳んで元に戻した。こんなもの捨てたっていいのに、何故だか捨てられない。

 ふたたび針を取る。暗くなる前に、もう少し進めておきたかった。

 何針か繍って、澄乃はふと手を止めた。扉の向こうから足音が聞こえた。

 誰かが廊下を歩いてくる。