有能すぎる押しかけ婿様に完全包囲されました

 澄乃は座っていた椅子から立ち上がった。

 着物の衿元と裾を整え、帯の具合を確かめてから台所を出る。針仕事のために着ていた薄鼠の小紋の袷は、古びていても粗末ではない。

 しかし客人の前へ出るには、いかにも奥向きの装いだった。帯も日常的な縞の半幅帯である。

 せめて帯だけでも締め直せたらよかったが、そんな時間はなかった。父の呼び出しである以上ぐずぐずしてはいられないし、ましてや見知らぬ軍人を待たせてるのも落ち着かない。

 一階の廊下の電灯はひとつおきに点いている。慣れた光量のはずが、何故だかひどく暗く思えた。

 一瞬立ちすくんだ澄乃は、袖口を軽く引き、スリッパの音をたてないよういつも以上に注意しながら書斎へと向かった。




 父の書斎の扉の前で立ち止まり、澄乃は一呼吸して息を整えた。

 扉越しに声は聞こえない。ぐずぐずしていても仕方がないので、澄乃は思い切って扉を(たた)いた。

 父の声がすぐに返ってくる。

「入りなさい」

 真鍮の把手を回し、慎重に扉を開けた。

 天井から擦り硝子(ガラス)越しの電灯が室内を照らしている。他の部屋の電球は節約のために外してしまったが、父の書斎だけは来客を迎えることを考えて残してある。

 書き物机では手許を照らすための石油洋燈(らんぷ)に火が灯されていたが、父は応接用の革張りソファに座り、正面に立てたステッキの握りに両手を載せていた。

 入ってきた澄乃に向けられた目には、動揺と迷いが浮かんでいるように思えた。父の背後には、ぎっしりと本の詰まった書棚を背に、ひとりの男性が立っていた。

 年齢はまだ三十路には達していないように思える。

 青みを帯びた茶褐色の軍服を隙なく着こなした、引き締まった体躯の長身の男だ。ゆうに六尺(約一八〇センチ)以上はあるだろう。

 高めの詰襟と、両肩に縫いつけられた緋色と金の肩章が、いかにも将校らしい。

 脱いだ軍帽を白手袋の手に持ち、左腰には軍刀を()いている。磨かれた革の刀帯と金具の輝きが古びた書斎にはひどくそぐわなくて、どこか不吉なものに思えた。

 切れ長の目が澄乃に向けられる。怜悧なまなざしだった。端正な顔立ちをしているが、そこに特別な感情は窺えない。

「澄乃、こちらは(たちばな)少佐だ」

 父の篤之(あつゆき)が堅苦しい声で紹介すると、軍人は静かに一歩前に出て一礼した。

「橘朔也(さくや)と申します。陸軍省兵站局に勤務しております」

 澄乃は彼に向き直ると頭を下げた。

「一条澄乃でございます」

 篤之は咳払いし、軽く手を振った。

「まぁ、座りなさい」

 澄乃はためらった。客が立っているのに座っていいのだろうか。橘少佐は無表情のままだ。

 ふたたび父がやや気難しげに促したので、澄乃はやむなく小卓を挟んで父の向かい側に腰を下ろした。

 父はしばらく眉間にしわを寄せ、うつむき加減に黙り込んでいたが、意を決したようにひとつ息をついて顔を上げた。

「実は、な。こちらの橘少佐が、我が家の借財を肩代わりしてくださることになった」

「はい?」

 面食らって澄乃は目を瞬いた。意味がわからない。見ず知らずの軍人が、借金の肩代わりを申し出る?

 父を見ると、眉間のしわをさらに深めて、何もない小卓を睨んでいる。澄乃は書棚の前に佇んでいる軍人に目を移した。

「あの、橘様」

「なんでしょう」

「橘様と我が家には、何かご縁でもございましたか?」

「ありません」

 きっぱりと青年将校は答えた。すがすがしい口調に、澄乃はますます困惑する。

「では何故──」

「これから縁ができるからです」

「は?」

 思わず目を丸くすると、篤之がごほんと咳払いをした。

「橘少佐は我が家に婿入りしたいとお申し出なのだ」

 澄乃はぽかんとした。

 婿入り。

 誰の、お婿さん?

 決まっている。

 自分の──だ。

 澄乃は思わず腰を浮かしかけ、すぐにすとんと下ろした。

 別に、驚くことではない。一条家には澄乃の他に子がいないのだ。

 つまり、跡取りの男子がいない。ゆえに、一条伯爵家を存続させるためには、澄乃が婿を取るほかない。

 ずっと前からわかっていたことだ。いつかはそんな話が来る、と。

 同時に、来るわけないと決めつけてもいた。五年前の父の落馬事故をきっかけに、一条家は急速に没落した。

 それこそ坂を転げるように。

 いや、それよりももっと前、母が亡くなった頃から少しずつ家は傾き始めていた。

 誰もが薄々と察しながら、誰も口にしなかったその事実が、父の事故によって不可避の現実となった。

「──突然言われて驚くのはわかる」

 父がしかつめらしく言う。

 澄乃は黙っていた。父の意向に逆らうつもりはない。だが、あまりに突然で──しかも非常識だった。

 仲人を立てることも、見合いの席を設けることもなく、いきなり本人がやって来るなんて。

 そんなの、ありえない──。

「澄乃」

 父が、機嫌を取るような声音で呼んだ。

 その声音にカッとなる。父が自分で決めて、命じたのなら、まだよかった。だけど、違うのだとわかってしまった。否も応もなく、父は受け入れざるを得なかったのだ。

 そして、そんなふうに父を追い詰めたこの見知らぬ軍人に、澄乃は強い反発と敵意を覚えた。

 澄乃は膝の上で、拳を握りしめた。

 心を懸命に落ち着かせ、キッと顔を上げる。すぐに目が合った。彼はずっとこちらを見ていたのだ。きつく握った拳を見られた気がして、澄乃は反射的に袖を引き寄せた。

「──お伺いしても、よろしいでしょうか」

「なんなりと」

 橘少佐はそっけなく答えた。慇懃無礼とはこのことかと、さらに腹立たしくなるのを必死に押さえ込む。

「縁もゆかりもない家に婿入りして、借財の肩代わりまでしようと仰る、その理由がわたくしには呑み込めません。この一条の名が、橘様にはそれほどご入り用なのですか」

 朔也は少しだけ考え込むように眉をひそめ、浅く頷いた。

「そのように思っていただいてかまいません」