大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

 母が亡くなって数年経った頃、この老人が自分の甥を養子にして一条伯爵を継がせてはどうかと勧めてきたことがある。

 父はけんもほろろに撥ねつけた。その甥というのが、実は老人が外にもうけた子で、その事情を伏せたまま一条家に押し込もうとしたことを父は知っていたのだ。

「良い婿が来てくれたからな」

 父の皮肉っぽい口調が気になり、澄乃は素早く言葉を添えた。

「お気遣い、痛み入ります」

 頭を下げると、父の憮然とした鼻息が聞こえた。

 茶を出した佐和が、廊下に端然と控える。養子うんぬんの話を知った佐和がひどく腹を立てたことを、澄乃は覚えていた。綾子の子でない者が一条家を継ぐなど、彼女にとっては天地がひっくり返ってもありえないことなのだ。

 穏やかならぬ空気を察して、夫人が取りなすように言った。

「澄乃様も、さぞお心強いことでしょう。もうご苦労なさらずに済みますもの、ね」

 無言で頭を下げる。

 夫人は何気なく言葉を次いだ。

「お得意の刺繍も、これからは高雅なご趣味として楽しめますわね。意に沿わぬ頼まれ仕事なんて、もうする必要ありませんもの」

 澄乃は、身体がこわばるのを感じた。

 高雅なご趣味。

 意に沿わぬ頼まれ仕事。

 (はた)からは、そのように見えていたのか。

 婿取りのおかげで逼迫する家計から解放された伯爵令嬢が、今後は暇潰しとして刺繍をする。

 一針一針、丁寧に、丹精込めて仕上げた刺繍も、結局は上流階級の『ご趣味』でしかないのか。

 否定したくても言葉が出て来ない。

 そもそも否定なんてできる? 自分自身で、所詮は素人仕事と卑下していながら──。

「──澄乃さんの刺繍は、単なる趣味ではありません」

 静かな声が、凛と座敷に響いた。

 澄乃は胸を衝かれて傍らの朔也を見た。

 彼は端然と座し、怜悧なまなざしを客に向けていた。

 まごつく夫人に瞳を据え、彼は穏やかな声音で続けた。

「澄乃さんの刺繍は義母上(ははうえ)から受け継いだ確かな技術です。手遊(てすさ)びではありません。澄乃さん自身の大切な仕事なのです」