大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

 夫なのか、他人なのか。

 どちらでもあり、どちらでもないような気もする。

 書類に記された「橘朔也」の三文字が、ふと頭をよぎった。戸籍の上では彼はもう橘朔也ではなく、一条朔也だ。

 そう思うとなんとも不思議だが、皮肉にもそれだけが今の澄乃にとってはたったひとつの確かなことだった。



 そろそろ夕餉も間近という時刻、玄関ホールから低い人声が聞こえてきた。冬の日はすでに落ち、外は宵闇に沈んでいる。

 朔也の声らしいと気づき、夕餉の支度を手伝っていた澄乃は佐和に断りを入れて玄関へ向かった。

 また、外出するのだろうか。こんな時間に。

 お見送りしないと……と漠然とした義務感を覚えて出て行くと、玄関ホールでは朔也と村瀬が話し込んでいた。

 朔也は礼装の羽織袴を解き、藍鼠の御召に仙斎茶の羽織という普段着姿だ。

 村瀬のほうは黒っぽい外套ですっぽり身体を覆っている。

 古びたハンチングをかぶると、村瀬は気がかりそうに朔也を見た。

「──高宮(たかみや)家のほうは、どうなさるおつもりで」

「すでに連絡済みだ」

「お怒りなのでは……」

 村瀬が呟くと、朔也は軽く鼻を鳴らした。

「知ったことか。もう届出は済んでいる」

 低く、きっぱりとした声音だった。

 言葉を継ごうとした村瀬は、ホールの角に佇む澄乃に気付いてハッとした。

 朔也は肩ごしにちらと視線を投げ、すぐに村瀬に向き直った。

「ご苦労だった。気をつけて帰れ」

「明日の朝、また参ります」

 村瀬は澄乃にも丁寧にお辞儀をし、出ていった。自動車の音は聞こえない。車は置いて帰るらしい。

「……お夕飯を召し上がっていけばよろしいのに」

 歩み寄ってゆくと、扉の鍵を閉めた朔也がかすかに口角を上げた。

「仕出しの余りを包んでもらいましたから」

「あの。高宮家というのは、もしかして高宮侯爵家のことでしょうか」