有能すぎる押しかけ婿様に完全包囲されました

 足音は部屋の前で止まり、遠慮がちに扉が(たた)かれた。

「まだ、繍い物をしているのかね」

 扉越しの声に、澄乃は正座したまま少し身体の向きを変えた。

「はい、お父様」

「寒いだろうに」

「暖炉がございます」

「……そうか」

 低い声が、あいまいに消えた。

 暖炉はある。

 火の気はないけれど。

 沈黙が続いたが、父がまだそこにいることはわかっていた。

「お父様、何かご用でしょうか」

「いや。あまり根をつめてはよくないと思ってね」

「もう少し繍ったらおしまいにしますわ。そうしたらお夕食にいたしましょう」

「そうだな」

 くぐもった声が答え、不規則な足音がゆっくりと遠ざかっていった。

 以前の父なら、元気よく扉を開けて入ってきただろうに。

 愛用の葉巻をくゆらして、刺繍台を覗き込んで目を細めて、きっとこう言う。

『上手いものだ。お母様にもひけをとらないよ』

 今でも、そう言ってもらいたがってる自分がいる。

 それを心の奥に無理やり押し込むと、澄乃は次第に薄れゆく寒々しい光の中で刺繍を再開した。

 いつしか宵闇が迫り、針先が見えづらくなった頃、表のほうから耳慣れぬ音が聞こえてきた。

 澄乃は針を持ったままふと顔を上げた。

 低い唸り声のようなそれは、どうやら自動車の発動機(エンジン)音らしかった。

 針を針山へ戻して立ち上がると、澄乃は静かにカーテンを閉めた。

 この部屋は玄関とは反対側なので、本当に自動車が来たのかどうか確かめることはできない。

 物音も、すでに止んでいた。

 刺繍台を片づけ、廊下へ出る。

 薄暗い廊下の突き当たりから橙色の灯が洩れていた。

 そこは台所で、一条家で電灯が点く数少ない場所のひとつだ。

 覗いてみると、佐和が瓦斯(ガス)コンロに燐寸(マッチ)で火を入れたところだった。

 青い炎の上に鉄瓶を置いた老女中が、温和な顔で振り向いた。

 藍の褪せた木綿絣に洗い晒しの白い前掛けといういつもの格好で、袖が邪魔にならないようたすきがけしている。

「お嬢様」

「佐和、お客様?」

「はい」

「どなたかしら」

「それが……軍人さんでございまして」

「軍人さん?」

 思いがけない答えに澄乃は当惑した。

 一条家が華やいでいた頃には軍方面と付き合いも多少はあったかもしれないが、今でも交流が続いている人物となるとまったく思いあたらない。

「どのような御用向き?」

「旦那様にお話があると、それだけでございます。取り次ぎましたところ旦那様も不思議そうなご様子でしたが、ともかくお通しせよとのことで、書斎へご案内いたしました」

 父の書斎も電灯が点く。この時間に客を通せるのはそこだけだ。

 澄乃は佐和が何か迷うそぶりなのに気付いて尋ねた。

「どうかしたの?」

「いえ、あの……旦那様の、お顔の色が。昨日からあまりよろしくございませんで……」

 澄乃は声を詰まらせた。先ほど父が部屋の前まで来たとき、ちゃんと扉を開けて応対すべきだった。

「お薬は、もうないのね……?」

 佐和は黙って頷いた。

 落馬事故の後遺症で父は背中と脚に慢性的な痛みがある。

 寒くなると痛みは余計に増すようだ。

「……わかりました。なんとかします」

 どうやって? と自問しつつ澄乃は小さく微笑んだ。

 鉄瓶が、しゅんしゅんと音を立て始める。

 澄乃は食器棚に目を遣った。

「お茶はまだあったかしら」

 思わず独りごちると、佐和が口許をほころばせた。

「ございますよ」

 佐和は慣れた手つきで急須を温め、茶筒から茶葉をすくって入れた。

 その音からして、残りはあまりないようだ。

 来客用の茶碗に丁寧に茶を注ぎ、そっと蓋をする。

 佐和はたすきを外すと前掛けのしわを掌で軽く伸ばし、澄乃に会釈すると盆を捧げ持って台所を出ていった。

 ふと、澄乃は玄関が気になった。

 佐和は玄関の電灯を点けただろうか。

 ふだん点けないから忘れているかも。

 玄関ホールへ行くと、明かり取りの窓から玄関灯がきちんと点いていることが確認できて、澄乃はホッとした。

 カーテンの端をめくって外を覗いてみる。

 玄関前に黒塗りの自動車が停まっていた。

 亜米利加(アメリカ)英吉利(イギリス)の、黒光りする立派な自動車だ。

 ふと、子どもの頃を思い出した。

 あの頃は珍しくもなかったものが、今ではひどく場違いに見えた。

 澄乃はそっとカーテンを閉じ、台所へ戻った。

 ほどなく佐和が空の盆を手に引き返してきた。

「佐和。お客様はどんな方?」

 こんな時間に外国製の自動車に乗って現れたのは、いったいどのような人物なのだろう。

 好奇心よりも不審を抑えかねて尋ねてみる。佐和は少し考えてから答えた。

「まだお若い方でございます。軍服がとても立派ですから将校さんのようにお見受けしましたけれども、それにしてはちょっとお若すぎる気もいたしますね」

 若い将校。

 ますます今の我が家には不釣り合いに思えてくる。

「何やら真剣な顔で旦那様とお話しされているご様子でございましたが……いったいなんのお話でございましょう」

 佐和も不安そうだ。

 若い将校が、年の瀬間近の夕暮れに我が家を訪れる理由。

 そんなものがあるとは思えず、澄乃と佐和が顔を見合わせていると、じりりん、じりりんと電鈴(ベル)が二度鳴った。

 出入り口の上にある呼び出し表示盤を見上げれば、『書斎』と書かれた小窓が開いていた。

 他にもたくさんの部屋が書かれているが、今でも使われているのは書斎と玄関だけだ。

「熱いお茶に淹れ直しましょう」

 小声でそう言い、佐和は盆を持って出ていった。

 しばらくしてふたつの茶碗を盆に載せて戻ってくると、佐和は困惑した顔で告げた。

「お嬢様に、すぐ来るようにとの仰せでございます」

「わたし?」

 当惑して澄乃は眉をひそめた。

 佐和もまるで見当がつかないらしく、曖昧に首を振っている。

「……わかりました」

 澄乃は座っていた椅子から立ち上がった。

 着物の衿元と裾を整え、帯の具合を確かめてから台所を出る。

 針仕事のために着ていた薄鼠の小紋の袷は、古びていても粗末ではない。

 しかし客人の前へ出るには、いかにも奥向きの装いだった。

 帯も日常的な縞の半幅帯である。

 せめて帯だけでも締め直せたらよかったが、そんな時間はなかった。

 父の呼び出しである以上ぐずぐずしてはいられないし、ましてや見知らぬ軍人を待たせてるのも落ち着かない。

 一階の廊下の電灯はひとつおきに点いている。

 慣れた光量のはずが、何故だかひどく暗く思えた。

 一瞬立ちすくんだ澄乃は、袖口を軽く引き、スリッパの音をたてないよういつも以上に注意しながら書斎へと向かった。