大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

 なのに、そのことを誰も口にしなかった。

 誰も触れないから、澄乃もまるで思い至らなかった。

 部屋を移る話は一度も出ず、祝言が終われば当然子どもの頃から住み慣れた私室にひとりで戻るのだと思い込んでいた。

 思い込むというより、意識にも上らなかった。

 佐和は、朔也に客間を用意していたのだろう。

 おそらくは、澄乃の部屋から一番遠い部屋を。

 あまりに急で強引な婿入りに対する、無言の抗議のように。

 それに気付いた篤之が、自分のかつての私室を使わせるよう指示したのだ。

 澄乃はなんだか可笑しくなった。

 ふたりとも気を遣いすぎだ。

 罪悪感か、憐憫か、わからないけれど。

 どちらにしたって無用なのに。

 自分で考え、決めたこと。

 この結婚を受け入れたのは、自らの意志なのだから。

 玄関ホールに流れた微妙な空気を察したのだろう。

 朔也が穏やかに言った。

「私は客間でかまいませんが」

「旦那様のお言いつけです」

 佐和は切り口上で繰り返した。

 いやいやながらというのではなく、この家に入ったからには当主の意向に従ってもらうという強い意志が感じられた。

「そうですか」

 朔也は気分を害した様子もなく頷くと、かすかに微笑らしきものを浮かべて澄乃に会釈した。

「それでは、また後で」

 黙って頭を下げる。

 朔也は、肩をそびやかすような所作で案内する佐和の後から静かに階段を上っていった。

 その姿を、玄関ホールに立ったまま澄乃は見送った。

 彼の存在が、ひどくあやふやだった。

 夫なのか、他人なのか。

 どちらでもあり、どちらでもないような気もする。

 書類に記された「橘朔也」の三文字が、ふと頭をよぎった。

 戸籍の上では彼はもう橘朔也ではなく、一条朔也だ。

 そう思うとなんとも不思議だが、皮肉にもそれだけが今の澄乃にとってはたったひとつの確かなことだった。