大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

 指が長く、がっしりした手が膝の上できちんと揃えられている。

 この人の素手は初めて見たわ……と澄乃は逃避のようにぼんやり考えた。

 それぞれの側の出席者が左右に分かれて座っている。どちらも人数は極端に少ない。

 橘家の側には、まず朔也の直属上司である須藤中佐夫妻が並んでいる。

 中佐は立派な口髭を蓄えた実直そうな初老の紳士で、羽織袴がたいそう板についていた。

 奥方を挟んで下手には二十代半ばの青年がしゃちほこばって座っていた。

 朔也の弟の道明(みちあき)だ。千駄木の東都医学専門学校に通っていると聞いた。

 面差しは似ているものの、軍人である兄とはかなり印象が異なる。立派な黒紋付だが着慣れていない様子で、居心地悪そうだ。

 道明と同居しているという長兄の修治郎(しゅうじろう)は来ていなかった。

 両親の姿もない。

 急だった上に年末の忙しい時期だから来られなかっただけかもしれないが、橘家がこの婿入りに賛成していないことを表明しているようにも思えてしまう。

 一条家側にいるのは篤之の他には菩提寺の住職だけだった。家運が傾いた今でも変わらず親しくしている数少ない人物のひとりで、今日の立会人でもある。

 佐和が銚子を手に新郎新婦の前にかしこまると、須藤中佐が重々しく咳払いした。

「それではこれより一条家と橘家の祝言を執り行います」

 佐和が膝を進め、三々九度が始まった。

 最初に一番小さな杯に長柄銚子で酒を注ぎ、中、大と盃を替えながら、朔也と澄乃は三口ずつ酒を受けた。

 佐和は気を利かせて澄乃の杯に注ぐ量はほんの少しにしてくれた。三つの盃それぞれで三回ずつ繰り返すので、そのたびに飲んでいたら酔ってしまう。

 もとよりなみなみ注ぐものではないが、三々九度が済んでも朔也の顔色はまったく変わらなかった。

 そういえば、軍人にしては色白ね……などと、どうでもいいことが頭に浮かんだのは少し酔ったせいかもしれない。

 続いて須藤中佐が『高砂』を謡った。

「高砂や この浦舟に帆を上げて──」

 響きの良い声だが、澄乃が知っているものとは節回しが少し違う。

 父も若い頃から謡を習っているが、流派が異なるのだろう。怪我をしてから父はあまり謡わなくなった。

 そっと窺うと父は目を閉じて、じっと謡に聞き入っている様子だった。

「──早や住の江に着きにけり。……このたびはおめでとうございます」

 中佐が新郎新婦に向かって深々と一礼し、澄乃は朔也とともに返礼した。

 儀式的なことが終わると、早速祝膳が出された。

 佐和と村瀬が水屋からてきぱきと膳を運んでくる。

 小鯛の尾頭付きに紅白なます、口取り、吸い物、赤飯、香の物。

 きちんと体裁が整っていることに安堵した。

 引き出物の菓子折は、紅白饅頭と松竹梅をかたどった干菓子の詰め合わせで、朔也が出した支度金の中から佐和が手配した。

 一条家が賑やかだった頃、季節の生菓子をよく取り寄せていた老舗だ。

 道明はもっぱら箸を動かすことに専念していた。

 中佐の奥方が気をつかって話しかければ応えはするものの、会話は長続きしない。

 朔也も弟に何か促すでもなく、ただ料理や盃を静かに口に運んでいる。

 なんとなく、この兄弟はあまり親しくなさそうだなと思った。



 年末でもあり、客は長居することなく帰っていった。

 玄関先に並んで送り出すと、その足で全員篤之の書斎へ移る。

 いつかのように小卓を挟んで腰を下ろすと、後ろに控えていた村瀬が何枚かの書類を卓上に並べた。

 朔也はそれを、篤之と澄乃に向け直して告げた。

「婚姻届と、養子縁組の書類です。こちらにご署名を」