夕方近くなって、玄関先から自動車の音が聞こえてきた。
階段を下りて行くと、朔也のインバネスを佐和が受け取っているところだった。
澄乃は階段下で一瞬立ちすくんでしまったが、静かに歩み寄って「お帰りなさいませ」と頭を下げた。
朔也は頷き、静かな声音で告げた。
「無事に受理されました。婚姻届も、養子縁組届も」
「──そうですか」
他にどう言えばいいのか、わからない。
朔也は澄乃を見つめた。
深い黒瞳はやはり感情が読み取れなかったが、出かけたときよりも目もとがやわらいでいるようにも思えた。
きっと、年内に届け出を済ませられて安堵したのだろう。
何をそんなに急いでいたのか、今でもわからないけれど。
「お部屋にご案内いたします」
後ろから佐和の声がした。
その声はなんだかよそよそしい響きをおびていた。
澄乃が訝しげな視線を向けると、はぐらかすように佐和は頭を下げた。
「旦那様のお言いつけで、橘様には今後二階の洋間をお使いいただくことになりました」
二階の洋間と聞いてハッとした澄乃は、佐和の口調がかたくなな理由も同時に理解した。
『二階の洋間』といえば、父と母が使っていた最も広い寝室を指す。
母が亡くなった後も私物はそのままになっていたが、父が落馬事故で脚を悪くして生活の拠点を一階に移した際、母の私物も整理した。
今は完全に空き部屋だ。
二階で一番広くて立派な部屋なのに、ここ五年ほどは時々空気を入れ替えたり掃除をするだけになっている。
そこを婿に使わせるようにと、当主の篤之が指示した。
佐和の不満はわかる。
押しかけるように婿入りしてきた男が、祝言を挙げたその日から主寝室を使うなど、納得できない。
それは朔也個人への印象とは別のこだわりなのだろう。
彼を『橘様』と呼んだのは、抵抗感の表明なのかもしれない。
驚きはしたが、澄乃は父の決定に不満を覚えはしなかった。
複雑ではあっても、不満ではない。
道理で考えれば、むしろ当然のことなのだ。
朔也はただ澄乃の婿になっただけではなく、父と養子縁組をした。
つまり、父が亡くなれば彼が一条家の家督を継ぐことになる。
佐和とてそれはわかっている。
だが、古風な忠勤者の彼女には、当主が進んで私室を明け渡したことが悔しいのだろう。
そして、今更ながらに澄乃は気づいた。
祝言を済ませた以上、本来なら今夜は──そういう夜ではないか?
