大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

「まぁまぁ、気付きませんで。ご無礼いたしました」

 恐縮する佐和に軽く頷き、少佐は後ろに控えている男を手招いた。

「以前、私の当番を務めていた村瀬という者です。今は退役して、市ヶ谷の住まいを見てもらっています」

 地味な紺の着物に羽織姿の、三十過ぎとおぼしき男性が進み出て一礼した。いかにも元兵士らしい堅苦しい所作だ。背筋がまっすぐ伸び、日に焼けた顔には古い傷痕があった。

「村瀬と申します。力仕事など、何なりとお申しつけください」

 ややかすれた低声で村瀬が挨拶すると、箒を手にした篤之は安堵をにじませて頷いた。

「それは助かる」

 佐和もホッとした顔になる。ちょうど重い火鉢に難儀していたところだったのだ。

「私は軍務があるので、これで失礼します」

 橘少佐はそれだけ言い置くと、きびきびした足どりで去っていった。

 男手が一人あるだけで、庭の掃除も離れの支度もどんどん進んだ。

 昼になり、佐和が作ったおにぎりを食べた後も村瀬は黙々と働き続けた。

 夕暮れになると村瀬は「明日(みょうにち)また参ります」とお辞儀をし、市ヶ谷へ帰っていった。