「急がせて申し訳ない」
その言葉に嘘はないのだろうが、だからといって日取りを改めるつもりもないらしい。
書類を置いた篤之は考え込むように呟いた。
「母屋の座敷が使えるな。襖を外せば──」
「あの。離れではいけませんか」
思わず口をはさんでしまう。父は怪訝そうな顔になった。
「離れか」
「お母様が、お好きだった場所ですので……。できましたら」
そう言うと、篤之は合点した様子で頷いた。
「そうだな。綾子も喜ぶだろう。──かまわんかね? やや手狭になるが」
問われた朔也は表情を変えることなく頷いた。
「差し支えありません。内々の祝言ですから」
相変わらず、婿入りしようという人とは思えない口ぶりだ。
「必要なものがあれば、こちらで手配します」
「いや、家にあるものでなんとかなる」
父の声音は静かだが、どこか苦い響きがあった。
下がってよいと父に言われ、澄乃は一礼して書斎を出た。
冷え冷えとした廊下を静かに歩む。
二十八日に祝言。
あと、五日。
やはり他人事みたいに思えてしまう。
現実感は、かえって日増しに遠のいてゆくようだった。
翌日からにわかに忙しくなった。
ただでさえ年末は気分的にも慌ただしいのに、橘少佐は年内の届出だけはどうしても譲らないのだ。
二十四日と二十五日の二日で、菩提寺の住職に立会人としての出席を頼み、祝膳の仕出しを手配した。
母が輿入れで用いた打掛の手入れ、盃台やら屏風やらの確認なども大急ぎで済ませる。
父から五十円を手渡されて、澄乃は驚いた。
祝言の支度金だと橘少佐が包んできたのだと言う。
遠慮しても仕方がないのでありがたく使わせてもらい、祝膳をひとつ格上のものに変更した。
一条家の窮乏を知られたくないというよりも、媒酌人として出席する橘少佐の上司夫妻に、婿入り先がこんな家かと失望されたくなかった。
二十六日の朝、澄乃は離れの雨戸をふたたび開け放った。
冷えきった畳に冬の光が薄く差し込み、床の間の隅に積もった埃が白く浮かび上がる。
「冬でようございましたね。庭も、落ち葉を掃けばどうにかなります」
佐和が励ますように言って、袖をたすきでくくる。
澄乃もそれに倣った。
ふたりとも木綿の着物に前掛けをつけ、手拭いで髪を覆っている。
「……どうにかしないと、ね」
独りごちるように呟いて、澄乃は箒を手に取った。
自分の祝言のために自分で離れの埃を払っているかと思うと、なんだか可笑しくもあり、ちょっと情けない気もした。
それでも床の間を拭いているうちに母の優しい横顔が思い浮かぶと、ほんのりと胸が温かくなった。
畳と床の間を綺麗に拭き清め、水屋も隅々まで掃除した。
長らく使われなかった火鉢の灰はすっかり固まっている。これもきれいにしないと。客を招くからには暖かくしなければ。
障子の張り替えも行ない、どうにか終わったのは日が暮れる頃だった。
その翌日、祝言の前日は荒れ放題の庭をできる限り整えた。冬枯れの時季なので庭木の剪定をしなくて済んで助かった。
父は落ち葉掃きくらいすると言い張って、慣れない手つきで竹箒を動かしている。
転んだら大変だと澄乃が止めようとしていると、案内なしに橘少佐が庭に現れた。
見知らぬ男をひとり伴っている。
その言葉に嘘はないのだろうが、だからといって日取りを改めるつもりもないらしい。
書類を置いた篤之は考え込むように呟いた。
「母屋の座敷が使えるな。襖を外せば──」
「あの。離れではいけませんか」
思わず口をはさんでしまう。父は怪訝そうな顔になった。
「離れか」
「お母様が、お好きだった場所ですので……。できましたら」
そう言うと、篤之は合点した様子で頷いた。
「そうだな。綾子も喜ぶだろう。──かまわんかね? やや手狭になるが」
問われた朔也は表情を変えることなく頷いた。
「差し支えありません。内々の祝言ですから」
相変わらず、婿入りしようという人とは思えない口ぶりだ。
「必要なものがあれば、こちらで手配します」
「いや、家にあるものでなんとかなる」
父の声音は静かだが、どこか苦い響きがあった。
下がってよいと父に言われ、澄乃は一礼して書斎を出た。
冷え冷えとした廊下を静かに歩む。
二十八日に祝言。
あと、五日。
やはり他人事みたいに思えてしまう。
現実感は、かえって日増しに遠のいてゆくようだった。
翌日からにわかに忙しくなった。
ただでさえ年末は気分的にも慌ただしいのに、橘少佐は年内の届出だけはどうしても譲らないのだ。
二十四日と二十五日の二日で、菩提寺の住職に立会人としての出席を頼み、祝膳の仕出しを手配した。
母が輿入れで用いた打掛の手入れ、盃台やら屏風やらの確認なども大急ぎで済ませる。
父から五十円を手渡されて、澄乃は驚いた。
祝言の支度金だと橘少佐が包んできたのだと言う。
遠慮しても仕方がないのでありがたく使わせてもらい、祝膳をひとつ格上のものに変更した。
一条家の窮乏を知られたくないというよりも、媒酌人として出席する橘少佐の上司夫妻に、婿入り先がこんな家かと失望されたくなかった。
二十六日の朝、澄乃は離れの雨戸をふたたび開け放った。
冷えきった畳に冬の光が薄く差し込み、床の間の隅に積もった埃が白く浮かび上がる。
「冬でようございましたね。庭も、落ち葉を掃けばどうにかなります」
佐和が励ますように言って、袖をたすきでくくる。
澄乃もそれに倣った。
ふたりとも木綿の着物に前掛けをつけ、手拭いで髪を覆っている。
「……どうにかしないと、ね」
独りごちるように呟いて、澄乃は箒を手に取った。
自分の祝言のために自分で離れの埃を払っているかと思うと、なんだか可笑しくもあり、ちょっと情けない気もした。
それでも床の間を拭いているうちに母の優しい横顔が思い浮かぶと、ほんのりと胸が温かくなった。
畳と床の間を綺麗に拭き清め、水屋も隅々まで掃除した。
長らく使われなかった火鉢の灰はすっかり固まっている。これもきれいにしないと。客を招くからには暖かくしなければ。
障子の張り替えも行ない、どうにか終わったのは日が暮れる頃だった。
その翌日、祝言の前日は荒れ放題の庭をできる限り整えた。冬枯れの時季なので庭木の剪定をしなくて済んで助かった。
父は落ち葉掃きくらいすると言い張って、慣れない手つきで竹箒を動かしている。
転んだら大変だと澄乃が止めようとしていると、案内なしに橘少佐が庭に現れた。
見知らぬ男をひとり伴っている。
