「確かにそうですわねぇ」
篠田夫人は顎に指を当てて思案し始めた。
「どうしようかしら……」
手持ちの着物を思い浮かべているのだろう。
夫人は視線を宙へ泳がせながら、ぽつぽつと言った。
「んー……。青磁色の訪問着はどうかしら。裾に銀泥で霞文様が入っているの。帯は……そうねぇ、薄金地の七宝柄……とか?」
「素敵ですわ。それでしたら……」
澄乃は少し考えた。
「……雪持ち椿など、いかがでしょうか。雪の白と赤い椿が青磁のお色によく映えるかと。半襟には細い枝つきの椿を。光沢のある緑の葉と赤い花びらで、お顔まわりが明るく見えると思います。手巾には蕾と、開きかけた椿を隅に刺繍して、それが半襟の椿と繋がるようにしてはどうでしょう。手巾とお着物と半襟とで、一続きの絵のように見えるように」
「あら! それは素敵だわ。わたくし自身が絵になるわけね」
夫人は頬に手をあてて、うっとりする。
そこまでは言っていないのだが、あえて訂正はせず、澄乃は曖昧に微笑んだ。
期せずして、篠田夫人の見栄と自尊心を満たす図案になったらしい。
夫人は嬉々として身を乗り出した。
「ぜひお願いしますわ。急で申し訳ないけれど、澄乃さんならきっと間に合わせてくださるわね」
「半襟と手巾だけでしたら、なんとか……」
「よかった! やっぱり澄乃さんは頼りになるわ。昔からのおつきあいだし、気軽にお願いできるのは澄乃さんだけですのよ。もちろん材料費はこちらが持ちますし、いつものように、お礼も少しばかり……いえ、上乗せしますわ。なにせ急なお願いですものね」
夫人の言葉に、澄乃の口許は微笑のかたちのままこわばった。
少しばかり。
上乗せ。
悪意のない、言葉。
訪問着に入れた南天の刺繍。
その『お礼』として渡された三十五円が思い浮かんだ。
『少しばかりはずんでおきましてよ』
あのときも、篠田夫人は無邪気に言った。
少しばかりとは、夫人にとっていくらなのだろう。
いつものように、お礼も少しばかり——。
これまでずっと、はっきりと値段を言わずに済ませてきた。
夫人は母の旧縁だし、割に合わないと感じても言い出せなかった。
自分の感覚が正しいかどうかもわからなかった。
すでに確立している文様を刺繍するだけなら、十日あれば充分に間に合うだろう。
だが、今回は図案を一から起こさなければならない。
まずは本物の椿を見て、写生をして、図案を考えるのはそれからだ。
花、葉、枝をどのように配置するか。
刺繍糸だって、赤、緑、茶でそれぞれ一色というわけにはいかない。
十五日に帝劇へ着ていくなら、どんなに遅くとも前日には渡さなければ。
となると、今日を入れても九日しかない。
九日間で、まったく新しい図案の下絵を作り、繍う。
できなくは、ない。
手を抜けば、楽にもなる。
本物の椿をじっくり観察する手間を省いて、頭にある記憶の椿で描いてしまえばいいのだ。
それらしく描ける自信はあった。
夫人もおそらく気付かないだろう。
夫人の『お友達』も、細かな違いなど気にもせず、ちやほやと褒めそやして夫人を良い気分にさせるだろう。
だけど──。
(──それでいいの? 本当に?)
脳裏に菫の花が思い浮かんだ。
刺繍が上達して、いい気になっていた幼い自分は、あの花に教えられた。
本当に美しいものを作りたかったら、きちんと観察しなければいけないのだと。
石灯籠の足元に群生する菫の花。
しげしげと覗き込む自分。
ふと、記憶に影が射した。
(……あのとき、誰か側にいなかった……?)
「ね、できますわよね?」
切実そうに訴える篠田夫人の声に、ハッと澄乃は我に返った。
はい、と頷きそうになったとき、扉が敲かれた。
「──どうぞ」
佐和が扉を開けて頭を下げる。
「若旦那様がお戻りになりました」
パッと夫人が顔を輝かせた。
「あらっ、お婿さんがお帰りになったの? 軍人さんでしたわね。ぜひご挨拶させていただきたいわ。ねぇ、澄乃さん、よろしいでしょ?」
仕方なく、澄乃は小さく佐和に頷いた。
玄関ホールのほうから遣り取りの声が聞こえ、やがて開いた扉から軍服姿のまま朔也が入ってきた。
外套と帽子、軍刀はすでに佐和に渡したのだろう。
それでも朔也のたたずまいはどこまでも毅然として隙がない。
彼は篠田夫人に向かい、軍人らしいきびきびした所作でお辞儀した。
「お初にお目にかかります。一条朔也です」
夫人は目を瞠って惚れ惚れと朔也を眺めた。
少女のように目許を染めている。
「まぁ、なんてご立派な……。朔也様と仰るのね。陸軍省にお勤めなんですってね」
「はい」
「将校さん?」
「少佐を拝命しております」
夫人はさらに目を丸くした。
「お若そうなのに、すごいわね。おいくつ?」
「数えで三十です」
年始の挨拶客に返したのと同じ答えだ。
澄乃は少し可笑しくなった。
ただ『三十です』で済まさず、いちいち『数えで』をつけるのが、妙に律儀だ。
篠田夫人は感心の面持ちで頷いた。
「一条様もこれで心強うございますわねぇ」
夫人の声音がなんだか嫉妬まじりに聞こえたのは、意識しすぎだろうか。
そういえば、篠田伯爵の令息たちも軍人だったはず。
「義父には孝養を尽くす所存です」
「ご立派ですわ」
「それでは、私はこれで。どうぞ、ごゆっくり」
「ああ、お待ちになって!」
退出しようとする朔也を、慌てて夫人は呼び止めた。
「今ね、澄乃さんに新しい刺繍をお願いしていましたの」
「……刺繍、ですか」
ぴくりと朔也の頬が動く。
「帝劇の新春興行に着ていく着物に、澄乃さんに刺繍していただいた半襟を合わせようと思って。どうせなら、殿方の意見も伺いたいわ」
上目遣いに品を作る夫人に、澄乃は唖然とした。
朔也のほうは面食らった面持ちで、眉根を寄せている。
「自分は武骨者ですので、ご婦人の装いに意見などできかねます」
「まぁ、そんなこと仰らず、ね? お座りになって」
ようやく澄乃は篠田夫人の意図を察した。
要するに、美男子の朔也をもっと鑑賞していたいのだ。
困惑気味の視線を向けられ、澄乃はやむなく頷いた。
見せ物じゃないんだから……とは思ったが、客人の要望を無下にはできない。
朔也はやや憮然とした面持ちで、それでも折り目正しく澄乃の隣のソファに腰を下ろした。
篠田夫人は顎に指を当てて思案し始めた。
「どうしようかしら……」
手持ちの着物を思い浮かべているのだろう。
夫人は視線を宙へ泳がせながら、ぽつぽつと言った。
「んー……。青磁色の訪問着はどうかしら。裾に銀泥で霞文様が入っているの。帯は……そうねぇ、薄金地の七宝柄……とか?」
「素敵ですわ。それでしたら……」
澄乃は少し考えた。
「……雪持ち椿など、いかがでしょうか。雪の白と赤い椿が青磁のお色によく映えるかと。半襟には細い枝つきの椿を。光沢のある緑の葉と赤い花びらで、お顔まわりが明るく見えると思います。手巾には蕾と、開きかけた椿を隅に刺繍して、それが半襟の椿と繋がるようにしてはどうでしょう。手巾とお着物と半襟とで、一続きの絵のように見えるように」
「あら! それは素敵だわ。わたくし自身が絵になるわけね」
夫人は頬に手をあてて、うっとりする。
そこまでは言っていないのだが、あえて訂正はせず、澄乃は曖昧に微笑んだ。
期せずして、篠田夫人の見栄と自尊心を満たす図案になったらしい。
夫人は嬉々として身を乗り出した。
「ぜひお願いしますわ。急で申し訳ないけれど、澄乃さんならきっと間に合わせてくださるわね」
「半襟と手巾だけでしたら、なんとか……」
「よかった! やっぱり澄乃さんは頼りになるわ。昔からのおつきあいだし、気軽にお願いできるのは澄乃さんだけですのよ。もちろん材料費はこちらが持ちますし、いつものように、お礼も少しばかり……いえ、上乗せしますわ。なにせ急なお願いですものね」
夫人の言葉に、澄乃の口許は微笑のかたちのままこわばった。
少しばかり。
上乗せ。
悪意のない、言葉。
訪問着に入れた南天の刺繍。
その『お礼』として渡された三十五円が思い浮かんだ。
『少しばかりはずんでおきましてよ』
あのときも、篠田夫人は無邪気に言った。
少しばかりとは、夫人にとっていくらなのだろう。
いつものように、お礼も少しばかり——。
これまでずっと、はっきりと値段を言わずに済ませてきた。
夫人は母の旧縁だし、割に合わないと感じても言い出せなかった。
自分の感覚が正しいかどうかもわからなかった。
すでに確立している文様を刺繍するだけなら、十日あれば充分に間に合うだろう。
だが、今回は図案を一から起こさなければならない。
まずは本物の椿を見て、写生をして、図案を考えるのはそれからだ。
花、葉、枝をどのように配置するか。
刺繍糸だって、赤、緑、茶でそれぞれ一色というわけにはいかない。
十五日に帝劇へ着ていくなら、どんなに遅くとも前日には渡さなければ。
となると、今日を入れても九日しかない。
九日間で、まったく新しい図案の下絵を作り、繍う。
できなくは、ない。
手を抜けば、楽にもなる。
本物の椿をじっくり観察する手間を省いて、頭にある記憶の椿で描いてしまえばいいのだ。
それらしく描ける自信はあった。
夫人もおそらく気付かないだろう。
夫人の『お友達』も、細かな違いなど気にもせず、ちやほやと褒めそやして夫人を良い気分にさせるだろう。
だけど──。
(──それでいいの? 本当に?)
脳裏に菫の花が思い浮かんだ。
刺繍が上達して、いい気になっていた幼い自分は、あの花に教えられた。
本当に美しいものを作りたかったら、きちんと観察しなければいけないのだと。
石灯籠の足元に群生する菫の花。
しげしげと覗き込む自分。
ふと、記憶に影が射した。
(……あのとき、誰か側にいなかった……?)
「ね、できますわよね?」
切実そうに訴える篠田夫人の声に、ハッと澄乃は我に返った。
はい、と頷きそうになったとき、扉が敲かれた。
「──どうぞ」
佐和が扉を開けて頭を下げる。
「若旦那様がお戻りになりました」
パッと夫人が顔を輝かせた。
「あらっ、お婿さんがお帰りになったの? 軍人さんでしたわね。ぜひご挨拶させていただきたいわ。ねぇ、澄乃さん、よろしいでしょ?」
仕方なく、澄乃は小さく佐和に頷いた。
玄関ホールのほうから遣り取りの声が聞こえ、やがて開いた扉から軍服姿のまま朔也が入ってきた。
外套と帽子、軍刀はすでに佐和に渡したのだろう。
それでも朔也のたたずまいはどこまでも毅然として隙がない。
彼は篠田夫人に向かい、軍人らしいきびきびした所作でお辞儀した。
「お初にお目にかかります。一条朔也です」
夫人は目を瞠って惚れ惚れと朔也を眺めた。
少女のように目許を染めている。
「まぁ、なんてご立派な……。朔也様と仰るのね。陸軍省にお勤めなんですってね」
「はい」
「将校さん?」
「少佐を拝命しております」
夫人はさらに目を丸くした。
「お若そうなのに、すごいわね。おいくつ?」
「数えで三十です」
年始の挨拶客に返したのと同じ答えだ。
澄乃は少し可笑しくなった。
ただ『三十です』で済まさず、いちいち『数えで』をつけるのが、妙に律儀だ。
篠田夫人は感心の面持ちで頷いた。
「一条様もこれで心強うございますわねぇ」
夫人の声音がなんだか嫉妬まじりに聞こえたのは、意識しすぎだろうか。
そういえば、篠田伯爵の令息たちも軍人だったはず。
「義父には孝養を尽くす所存です」
「ご立派ですわ」
「それでは、私はこれで。どうぞ、ごゆっくり」
「ああ、お待ちになって!」
退出しようとする朔也を、慌てて夫人は呼び止めた。
「今ね、澄乃さんに新しい刺繍をお願いしていましたの」
「……刺繍、ですか」
ぴくりと朔也の頬が動く。
「帝劇の新春興行に着ていく着物に、澄乃さんに刺繍していただいた半襟を合わせようと思って。どうせなら、殿方の意見も伺いたいわ」
上目遣いに品を作る夫人に、澄乃は唖然とした。
朔也のほうは面食らった面持ちで、眉根を寄せている。
「自分は武骨者ですので、ご婦人の装いに意見などできかねます」
「まぁ、そんなこと仰らず、ね? お座りになって」
ようやく澄乃は篠田夫人の意図を察した。
要するに、美男子の朔也をもっと鑑賞していたいのだ。
困惑気味の視線を向けられ、澄乃はやむなく頷いた。
見せ物じゃないんだから……とは思ったが、客人の要望を無下にはできない。
朔也はやや憮然とした面持ちで、それでも折り目正しく澄乃の隣のソファに腰を下ろした。
