橘少佐は無造作に頷いた。
「慌ただしいことで申し訳ないが、早ければ早いほど安心なので」
いったい何が安心なのかと問う暇もなく、少佐はぴしりと一礼して大股に出ていった。
澄乃と篤之は呆気にとられ、送り出すことも忘れて座り込んだままでいた。
玄関扉の開く音に、我に返って澄乃は慌てて玄関ホールへ向かった。すでに少佐の姿はなく、深々と佐和がお辞儀しているだけだった。
一昨日と同じように自動車の発動機音が唸りを上げ、遠ざかってゆく。
父がステッキを付きながら玄関ホールまで出てきて、苦笑まじりに呟いた。
「婿入りする側に挙式を急かされるとはな。……まぁ、やむをえんか」
扉を閉めた佐和が、心配そうに篤之を窺う。父はなんでもないと手を振った。
「しかし澄乃。本当によかったのかね?」
澄乃は閉まった玄関扉を見つめ、父に向き直ると頷いた。
「決めましたから」
「……ならば、よいが」
父が不憫げに、しかしどこか肩の荷が下りたような顔つきで澄乃を見る。
澄乃は意識して口角を持ち上げた。
これでよかったのだ。後悔はない。不満もなかった。
これからも刺繍を仕事として続けられるのだから、不満などあるはずもない。
父の背に手を添えて廊下を歩きながら、澄乃はぼんやりと考えた。
南天の刺繍を早く終わらせないと。
本当に年内に挙式するなら、なおのこと──。
南天の赤い実が、ようやくすべて揃った。
針を置き、刺繍台に張った絹地を眺める。
松の枝から流れ落ちるように南天が裾を彩っている。流水めいてしなる茎、ふっくらとした赤い実、葉の裏表をいろどる陰影。
悪くはない。たぶん、良い出来と言っていいはずだ。
澄乃はしばし無言で刺繍を眺め、静かに糸切り鋏を手に取った。
糸を切ると張りつめていた絹地がゆるみ、光の当たり具合が変わった。南天の赤が、さっきより少しだけ深みを増して見え、澄乃はやっと満足した。
やはり、台から外してみないと本当の出来はわからない。
布を丁寧に畳み、佐和を呼ぶ。
刺繍そのものは澄乃の仕事だが、ほどいた着物をふたたび仕立てるのは佐和の役目だ。仕立物と繕い物にかけては、佐和のほうが澄乃よりずっと確かである。
佐和は丁重に生地を受け取って引き下がった。
すぐに次の仕事に取りかかる。残るは半襟三枚と帯留二個だ。年内に納品まで済ませるため、澄乃は朝から日が落ちるまでほとんど休まず針を動かし続けた。
篠田伯爵夫人が訪問着を取りに来たのは、二十三日の昼過ぎだった。
玄関からすぐの応接間に通された夫人は、刺繍を施された訪問着を広げるなりはしゃいだ歓声を上げた。
袖の松のモダンな配置、裾の南天の動きのある構図を指でなぞり、満面の笑みを浮かべる。
「本当に素敵……。やっぱり澄乃さんに頼んで正解でしたわ」
ひとしきり刺繍の出来を鑑賞すると、夫人はおもむろに財布を取り出し、紙幣を懐紙に包んで差し出した。
澄乃は予想より軽く感じてしまったが、夫人は婉然と微笑んで秘密めかして囁いた。
「少しばかりはずんでおきましてよ」
「……ありがとうございます」
会釈して、澄乃は謝礼を懐にしまった。
夫人を送り出し、そっと懐紙を開いてみる。
「慌ただしいことで申し訳ないが、早ければ早いほど安心なので」
いったい何が安心なのかと問う暇もなく、少佐はぴしりと一礼して大股に出ていった。
澄乃と篤之は呆気にとられ、送り出すことも忘れて座り込んだままでいた。
玄関扉の開く音に、我に返って澄乃は慌てて玄関ホールへ向かった。すでに少佐の姿はなく、深々と佐和がお辞儀しているだけだった。
一昨日と同じように自動車の発動機音が唸りを上げ、遠ざかってゆく。
父がステッキを付きながら玄関ホールまで出てきて、苦笑まじりに呟いた。
「婿入りする側に挙式を急かされるとはな。……まぁ、やむをえんか」
扉を閉めた佐和が、心配そうに篤之を窺う。父はなんでもないと手を振った。
「しかし澄乃。本当によかったのかね?」
澄乃は閉まった玄関扉を見つめ、父に向き直ると頷いた。
「決めましたから」
「……ならば、よいが」
父が不憫げに、しかしどこか肩の荷が下りたような顔つきで澄乃を見る。
澄乃は意識して口角を持ち上げた。
これでよかったのだ。後悔はない。不満もなかった。
これからも刺繍を仕事として続けられるのだから、不満などあるはずもない。
父の背に手を添えて廊下を歩きながら、澄乃はぼんやりと考えた。
南天の刺繍を早く終わらせないと。
本当に年内に挙式するなら、なおのこと──。
南天の赤い実が、ようやくすべて揃った。
針を置き、刺繍台に張った絹地を眺める。
松の枝から流れ落ちるように南天が裾を彩っている。流水めいてしなる茎、ふっくらとした赤い実、葉の裏表をいろどる陰影。
悪くはない。たぶん、良い出来と言っていいはずだ。
澄乃はしばし無言で刺繍を眺め、静かに糸切り鋏を手に取った。
糸を切ると張りつめていた絹地がゆるみ、光の当たり具合が変わった。南天の赤が、さっきより少しだけ深みを増して見え、澄乃はやっと満足した。
やはり、台から外してみないと本当の出来はわからない。
布を丁寧に畳み、佐和を呼ぶ。
刺繍そのものは澄乃の仕事だが、ほどいた着物をふたたび仕立てるのは佐和の役目だ。仕立物と繕い物にかけては、佐和のほうが澄乃よりずっと確かである。
佐和は丁重に生地を受け取って引き下がった。
すぐに次の仕事に取りかかる。残るは半襟三枚と帯留二個だ。年内に納品まで済ませるため、澄乃は朝から日が落ちるまでほとんど休まず針を動かし続けた。
篠田伯爵夫人が訪問着を取りに来たのは、二十三日の昼過ぎだった。
玄関からすぐの応接間に通された夫人は、刺繍を施された訪問着を広げるなりはしゃいだ歓声を上げた。
袖の松のモダンな配置、裾の南天の動きのある構図を指でなぞり、満面の笑みを浮かべる。
「本当に素敵……。やっぱり澄乃さんに頼んで正解でしたわ」
ひとしきり刺繍の出来を鑑賞すると、夫人はおもむろに財布を取り出し、紙幣を懐紙に包んで差し出した。
澄乃は予想より軽く感じてしまったが、夫人は婉然と微笑んで秘密めかして囁いた。
「少しばかりはずんでおきましてよ」
「……ありがとうございます」
会釈して、澄乃は謝礼を懐にしまった。
夫人を送り出し、そっと懐紙を開いてみる。
